前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻はした。吾輩も少々氣の毒な感じがする。ちつと景氣を付けてやらうと思つて「然し鼠なら君に睨まれては百年目だらう。君は餘り鼠を捕るのが名人で鼠許り食ふものだからそんなに肥つて色つやが善いのだらう」黒の御機嫌をとる爲めの此質問は不思議にも反對の結果を呈出した。彼は喟然として大息していふ。「考げえると誥らねえ。いくら稼いで鼠をとつたつて――一てえ人間程ふてえ奴は世の中に居ねえぜ。人のとつた鼠を皆んな取り上げやがって交番へ持つて行きあがる。交番じや誰が捕つたか分らねえから其た―ん―びに五錢宛くれるぢやねえか。うちの亭主なんか己の御蔭でもう壹圓五十錢位儲けて居やがる癖に、碌なものを食せた事もありやしねえ。おい人間てものあ體の善い泥棒だぜ」さすが無學の黒も此位の理窟はわかると見えて頗る怒つた容子で脊中の毛を逆立てゝ居る。吾輩は少々氣味が惡くなつたから善い加減に其塲を胡魔化して家へ歸つた。此時から吾輩は决して鼠をとるまいと决心した。然し黒の子分になつて鼠以外の御馳走を獵つてあるく事もしなかつた。御馳走を食ふよりも寢て居た方が氣樂でいゝ。教師の家に居ると猫も教師の樣な性質になると見える。要心しないと今に胃弱になるかも知れない。
 教師といへば吾輩の主人も近頃に至つては到底水彩畫に於て望のない事を悟つたものと見えて十二月一日の日記にこんな事をかきつけた。[#「。」は底本にはない]
[#引用文、本文より2字下げ]
○○と云ふ人に今日の會で始めて出逢つた。あの人は大分放蕩をした人だと云ふが成程通人らしい風采をして居る。かう云ふ質の人は女に好かれるものだから○○が放蕩をしたと云ふよりも放蕩をする可く餘儀なくせられたと云ふのが適當であらう。あの人の妻君は藝者ださうだ、羨[#「羨」の さんずい は、底本では にすい]しい事である。元來放蕩家を惡くいふ人の大部分は放蕩をする資格のないものが多い。又放蕩家を以つて自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多い。是等は餘儀なくされないのに無理に進んでやるのである。恰も我輩の水彩畫に於るが如きもので到底卒業する氣づかひはない。然るにも關せず、自分丈は通人だと思つて濟して居る。料理屋の酒を飮んだり待合へ這入るから通人となり得るといふ論が立つなら、我輩も一廉の水彩畫家になり得る理窟だ。我輩の水彩畫の如きはかゝない方がまし
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