。利かないから不平だ。不平だから超人などを書物の上だけで振り廻すのさ。吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困っている。それだから西洋の文明などはちょっといいようでもつまり駄目なものさ。これに反して東洋じゃ昔しから心の修行をした。その方が正しいのさ。見給え個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった時、王者《おうしゃ》の民《たみ》蕩々《とうとう》たりと云う句の価値を始めて発見するから。無為《むい》にして化《か》すと云う語の馬鹿に出来ない事を悟るから。しかし悟ったってその時はもうしようがない。アルコール中毒に罹《かか》って、ああ酒を飲まなければよかったと考えるようなものさ」
「先生方は大分《だいぶ》厭世的な御説のようだが、私は妙ですね。いろいろ伺っても何とも感じません。どう云うものでしょう」と寒月君が云う。
「そりゃ妻君を持ち立てだからさ」と迷亭君がすぐ解釈した。すると主人が突然こんな事を云い出した。
「妻《さい》を持って、女はいいものだなどと思うと飛んだ間違になる。参考のためだから、おれが面白い物を読んで聞かせる。よく聴くがいい」と最前《さいぜん》書斎から持って来た古い本を取り上げて「この本は古い本だが、この時代から女のわるい事は歴然と分ってる」と云うと、寒月君が
「少し驚きましたな。元来いつ頃の本ですか」と聞く。「タマス・ナッシと云って十六世紀の著書だ」
「いよいよ驚ろいた。その時分すでに私の妻《さい》の悪口を云ったものがあるんですか」
「いろいろ女の悪口があるが、その内には是非君の妻《さい》も這入る訳だから聞くがいい」
「ええ聞きますよ。ありがたい事になりましたね」
「まず古来の賢哲が女性観を紹介すべしと書いてある。いいかね。聞いてるかね」
「みんな聞いてるよ。独身の僕まで聞いてるよ」
「アリストートル曰《いわ》く女はどうせ碌《ろく》でなしなれば、嫁をとるなら、大きな嫁より小さな嫁をとるべし。大きな碌でなしより、小さな碌でなしの方が災《わざわい》少なし……」
「寒月君の妻君は大きいかい、小さいかい」
「大きな碌でなしの部ですよ」
「ハハハハ、こりゃ面白い本だ。さああとを読んだ」
「或る人問う、いかなるかこれ最大奇蹟《さいだいきせき》。賢者答えて曰く、貞婦……」
「賢者ってだれですか」
「名前は書いてない」
「どうせ振られた賢者に相違ないね」
「次にはダイオジニスが出ている。或る人問う、妻を娶《めと》るいずれの時においてすべきか。ダイオジニス答えて曰く青年は未《いま》だし、老年はすでに遅し。とある」
「先生|樽《たる》の中で考えたね」
「ピサゴラス曰《いわ》く天下に三の恐るべきものあり曰く火、曰く水、曰く女」
「希臘《ギリシャ》の哲学者などは存外|迂濶《うかつ》な事を云うものだね。僕に云わせると天下に恐るべきものなし。火に入《い》って焼けず、水に入って溺れず……」だけで独仙君ちょっと行き詰る。
「女に逢ってとろけずだろう」と迷亭先生が援兵に出る。主人はさっさとあとを読む。
「ソクラチスは婦女子を御《ぎょ》するは人間の最大難事と云えり。デモスセニス曰く人もしその敵を苦しめんとせば、わが女を敵に与うるより策の得たるはあらず。家庭の風波に日となく夜《よ》となく彼を困憊《こんぱい》起つあたわざるに至らしむるを得ればなりと。セネカは婦女と無学をもって世界における二大厄とし、マーカス・オーレリアスは女子は制御し難き点において船舶に似たりと云い、プロータスは女子が綺羅《きら》を飾るの性癖をもってその天稟《てんぴん》の醜を蔽《おお》うの陋策《ろうさく》にもとづくものとせり。ヴァレリアスかつて書をその友某におくって告げて曰く天下に何事も女子の忍んでなし得ざるものあらず。願わくは皇天|憐《あわれみ》を垂れて、君をして彼等の術中に陥《おちい》らしむるなかれと。彼また曰く女子とは何ぞ。友愛の敵にあらずや。避くべからざる苦しみにあらずや、必然の害にあらずや、自然の誘惑にあらずや、蜜《みつ》に似たる毒にあらずや。もし女子を棄つるが不徳ならば、彼等を棄てざるは一層の呵責《かしゃく》と云わざるべからず。……」
「もう沢山です、先生。そのくらい愚妻のわる口を拝聴すれば申し分はありません」
「まだ四五ページあるから、ついでに聞いたらどうだ」
「もうたいていにするがいい。もう奥方の御帰りの刻限だろう」と迷亭先生がからかい掛けると、茶の間の方で
「清や、清や」と細君が下女を呼ぶ声がする。
「こいつは大変だ。奥方はちゃんといるぜ、君」
「ウフフフフ」と主人は笑いながら「構うものか」と云った。
「奥さん、奥さん。いつの間《ま》に御帰りですか」
 茶の間ではしんとして答がない。
「奥さん、今のを聞いたんですか。え?」
 答はまだない。
「今のはね、御主人の御考ではないですよ。十六世紀のナッシ君の説ですから御安心なさい」
「存じません」と妻君は遠くで簡単な返事をした。寒月君はくすくすと笑った。
「私も存じませんで失礼しましたアハハハハ」と迷亭君は遠慮なく笑ってると、門口《かどぐち》をあらあらしくあけて、頼むとも、御免とも云わず、大きな足音がしたと思ったら、座敷の唐紙が乱暴にあいて、多々良三平《たたらさんぺい》君の顔がその間からあらわれた。
 三平君今日はいつに似ず、真白なシャツに卸立《おろした》てのフロックを着て、すでに幾分か相場《そうば》を狂わせてる上へ、右の手へ重そうに下げた四本の麦酒《ビール》を縄ぐるみ、鰹節《かつぶし》の傍《そば》へ置くと同時に挨拶もせず、どっかと腰を下ろして、かつ膝を崩したのは目覚《めざま》しい武者振《むしゃぶり》である。
「先生胃病は近来いいですか。こうやって、うちにばかりいなさるから、いかんたい」
「まだ悪いとも何ともいやしない」
「いわんばってんが、顔色はよかなかごたる。先生顔色が黄《きい》ですばい。近頃は釣がいいです。品川から舟を一艘雇うて――私はこの前の日曜に行きました」
「何か釣れたかい」
「何も釣れません」
「釣れなくっても面白いのかい」
「浩然《こうぜん》の気を養うたい、あなた。どうですあなたがた。釣に行った事がありますか。面白いですよ釣は。大きな海の上を小舟で乗り廻わしてあるくのですからね」と誰彼の容赦なく話しかける。
「僕は小さな海の上を大船で乗り廻してあるきたいんだ」と迷亭君が相手になる。
「どうせ釣るなら、鯨《くじら》か人魚でも釣らなくっちゃ、詰らないです」と寒月君が答えた。
「そんなものが釣れますか。文学者は常識がないですね。……」
「僕は文学者じゃありません」
「そうですか、何ですかあなたは。私のようなビジネス・マンになると常識が一番大切ですからね。先生私は近来よっぽど常識に富んで来ました。どうしてもあんな所にいると、傍《はた》が傍だから、おのずから、そうなってしまうです」
「どうなってしまうのだ」
「煙草《たばこ》でもですね、朝日や、敷島《しきしま》をふかしていては幅が利《き》かんです」と云いながら、吸口に金箔《きんぱく》のついた埃及《エジプト》煙草を出して、すぱすぱ吸い出した、
「そんな贅沢《ぜいたく》をする金があるのかい」
「金はなかばってんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、大変信用が違います」
「寒月君が珠を磨くよりも楽な信用でいい、手数《てすう》がかからない。軽便信用だね」と迷亭が寒月にいうと、寒月が何とも答えない間に、三平君は
「あなたが寒月さんですか。博士にゃ、とうとうならんですか。あなたが博士にならんものだから、私が貰う事にしました」
「博士をですか」
「いいえ、金田家の令嬢をです。実は御気の毒と思うたですたい。しかし先方で是非貰うてくれ貰うてくれと云うから、とうとう貰う事に極《き》めました、先生。しかし寒月さんに義理がわるいと思って心配しています」
「どうか御遠慮なく」と寒月君が云うと、主人は
「貰いたければ貰ったら、いいだろう」と曖昧《あいまい》な返事をする。
「そいつはおめでたい話だ。だからどんな娘を持っても心配するがものはないんだよ。だれか貰うと、さっき僕が云った通り、ちゃんとこんな立派な紳士の御|聟《むこ》さんが出来たじゃないか。東風君新体詩の種が出来た。早速とりかかりたまえ」と迷亭君が例のごとく調子づくと三平君は
「あなたが東風君ですか、結婚の時に何か作ってくれませんか。すぐ活版にして方々へくばります。太陽へも出してもらいます」
「ええ何か作りましょう、いつ頃《ごろ》御|入用《にゅうよう》ですか」
「いつでもいいです。今まで作ったうちでもいいです。その代りです。披露《ひろう》のとき呼んで御馳走《ごちそう》するです。シャンパンを飲ませるです。君シャンパンを飲んだ事がありますか。シャンパンは旨《うま》いです。――先生披露会のときに楽隊を呼ぶつもりですが、東風君の作を譜にして奏したらどうでしょう」
「勝手にするがいい」
「先生、譜にして下さらんか」
「馬鹿云え」
「だれか、このうちに音楽の出来るものはおらんですか」
「落第の候補者寒月君はヴァイオリンの妙手だよ。しっかり頼んで見たまえ。しかしシャンパンくらいじゃ承知しそうもない男だ」
「シャンパンもですね。一瓶《ひとびん》四円や五円のじゃよくないです。私の御馳走するのはそんな安いのじゃないですが、君一つ譜を作ってくれませんか」
「ええ作りますとも、一瓶二十銭のシャンパンでも作ります。なんならただでも作ります」
「ただは頼みません、御礼はするです。シャンパンがいやなら、こう云う御礼はどうです」と云いながら上着の隠袋《かくし》のなかから七八枚の写真を出してばらばらと畳の上へ落す。半身がある。全身がある。立ってるのがある。坐ってるのがある。袴《はかま》を穿《は》いてるがある。振袖《ふりそで》がある。高島田がある。ことごとく妙齢の女子ばかりである。
「先生候補者がこれだけあるです。寒月君と東風君にこのうちどれか御礼に周旋してもいいです。こりゃどうです」と一枚寒月君につき付ける。
「いいですね。是非周旋を願いましょう」
「これでもいいですか」とまた一枚つきつける。
「それもいいですね。是非周旋して下さい」
「どれをです」
「どれでもいいです」
「君なかなか多情ですね。先生、これは博士の姪《めい》です」
「そうか」
「この方は性質が極《ごく》いいです。年も若いです。これで十七です。――これなら持参金が千円あります。――こっちのは知事の娘です」と一人で弁じ立てる。
「それをみんな貰う訳にゃいかないでしょうか」
「みんなですか、それはあまり慾張りたい。君|一夫多妻主義《いっぷたさいしゅぎ》ですか」
「多妻主義じゃないですが、肉食論者《にくしょくろんしゃ》です」
「何でもいいから、そんなものは早くしまったら、よかろう」と主人は叱りつけるように言い放ったので、三平君は
「それじゃ、どれも貰わんですね」と念を押しながら、写真を一枚一枚にポッケットへ収めた。
「何だいそのビールは」
「お見やげでござります。前祝《まえいわい》に角《かど》の酒屋で買うて来ました。一つ飲んで下さい」
 主人は手を拍《う》って下女を呼んで栓《せん》を抜かせる。主人、迷亭、独仙、寒月、東風の五君は恭《うやうや》しくコップを捧げて、三平君の艶福《えんぷく》を祝した。三平君は大《おおい》に愉快な様子で
「ここにいる諸君を披露会に招待しますが、みんな出てくれますか、出てくれるでしょうね」と云う。
「おれはいやだ」と主人はすぐ答える。
「なぜですか。私の一生に一度の大礼《たいれい》ですばい。出てくんなさらんか。少し不人情のごたるな」
「不人情じゃないが、おれは出ないよ」
「着物がないですか。羽織と袴《はかま》くらいどうでもしますたい。ちと人中《ひとなか》へも出るがよかたい先生。有名な人に紹介して上げます」
「真平《まっぴら》ご免《めん》だ」
「胃病が癒《なお》りますばい」
「癒らんでも差支《さしつか》えない」
「そげん頑固張《がんこば》りなさ
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