でも出来た時代です。その次には御上の御威光でも[#「でも」に傍点]出来ないものが出来てくる時代です。今の世はいかに殿下でも閣下でも、ある程度以上に個人の人格の上にのしかかる事が出来ない世の中です。はげしく云えば先方に権力があればあるほど、のしかかられるものの方では不愉快を感じて反抗する世の中です。だから今の世は昔《むか》しと違って、御上の御威光だから[#「だから」に傍点]出来ないのだと云う新現象のあらわれる時代です、昔しのものから考えると、ほとんど考えられないくらいな事柄が道理で通る世の中です。世態人情の変遷と云うものは実に不思議なもので、迷亭君の未来記も冗談だと云えば冗談に過ぎないのだが、その辺の消息を説明したものとすれば、なかなか味《あじわい》があるじゃないですか」
「そう云う知己《ちき》が出てくると是非未来記の続きが述べたくなるね。独仙君の御説のごとく今の世に御上の御威光を笠《かさ》にきたり、竹槍の二三百本を恃《たのみ》にして無理を押し通そうとするのは、ちょうどカゴへ乗って何でも蚊《か》でも汽車と競争しようとあせる、時代後れの頑物《がんぶつ》――まあわからずやの張本《ちょうほん》、烏金《からすがね》の長範先生《ちょうはんせんせい》くらいのものだから、黙って御手際《おてぎわ》を拝見していればいいが――僕の未来記はそんな当座間に合せの小問題じゃない。人間全体の運命に関する社会的現象だからね。つらつら目下文明の傾向を達観して、遠き将来の趨勢《すうせい》を卜《ぼく》すると結婚が不可能の事になる。驚ろくなかれ、結婚の不可能。訳はこうさ。前《ぜん》申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中《うち》で喧嘩《けんか》を買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、滅多《めった》に人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明かに昔より弱くなったんだろう。強くなるのは嬉しいが、弱くなるのは誰もありがたくないから、人から一毫《いちごう》も犯《おか》されまいと、強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛《はんもう》でも人を侵《おか》してやろうと、弱いところは無理にも拡《ひろ》げたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。かくのごとく人間が自業自得で苦しんで、その苦し紛《まぎ》れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。日本でも山の中へ這入って見給え。一家一門《いっけいちもん》ことごとく一軒のうちにごろごろしている。主張すべき個性もなく、あっても主張しないから、あれで済゛のだが文明の民はたとい親子の間でもお互に我儘《わがまま》を張れるだけ張らなければ損になるから勢《いきお》い両者の安全を保持するためには別居しなければならない。欧洲は文明が進んでいるから日本より早くこの制度が行われている。たまたま親子同居するものがあっても、息子《むすこ》がおやじから利息のつく金を借りたり、他人のように下宿料を払ったりする。親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払えばこそ、こんな美風が成立するのだ。この風は早晩日本へも是非輸入しなければならん。親類はとくに離れ、親子は今日《こんにち》に離れて、やっと我慢しているようなものの個性の発展と、発展につれてこれに対する尊敬の念は無制限にのびて行くから、まだ離れなくては楽が出来ない。しかし親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはない訳だから、最後の方案として夫婦が分れる事になる。今の人の考ではいっしょにいるから夫婦だと思ってる。それが大きな了見違いさ。いっしょにいるためにはいっしょにいるに充分なるだけ個性が合わなければならないだろう。昔しなら文句はないさ、異体同心とか云って、目には夫婦二人に見えるが、内実は一人前《いちにんまえ》なんだからね。それだから偕老同穴《かいろうどうけつ》とか号して、死んでも一つ穴の狸に化ける。野蛮なものさ。今はそうは行かないやね。夫はあくまでも夫で妻はどうしたって妻だからね。その妻が女学校で行灯袴《あんどんばかま》を穿《は》いて牢乎《ろうこ》たる個性を鍛《きた》え上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思う通りになる訳がない。また夫の思い通りになるような妻なら妻じゃない人形だからね。賢夫人になればなるほど個性は凄《すご》いほど発達する。発達すればするほど夫と合わなくなる。合わなければ自然の勢《いきおい》夫と衝突する。だから賢妻と名がつく以上は朝から晩まで夫と衝突している。まことに結構な事だが、賢妻を迎えれば迎えるほど双方共苦しみの程度が増してくる。水と油のように夫婦の間には截然《せつぜん》たるしきりがあって、それも落ちついて、しきりが水平線を保っていればまだしもだが、水と油が双方から働らきかけるのだから家のなかは大地震のように上がったり下がったりする。ここにおいて夫婦雑居はお互の損だと云う事が次第に人間に分ってくる。……」
「それで夫婦がわかれるんですか。心配だな」と寒月君が云った。
「わかれる。きっとわかれる。天下の夫婦はみんな分れる。今まではいっしょにいたのが夫婦であったが、これからは同棲《どうせい》しているものは夫婦の資格がないように世間から目《もく》されてくる」
「すると私なぞは資格のない組へ編入される訳ですね」と寒月君は際《きわ》どいところでのろけを云った。
「明治の御代《みよ》に生れて幸さ。僕などは未来記を作るだけあって、頭脳が時勢より一二歩ずつ前へ出ているからちゃんと今から独身でいるんだよ。人は失恋の結果だなどと騒ぐが、近眼者の視《み》るところは実に憐れなほど浅薄なものだ。それはとにかく、未来記の続きを話すとこうさ。その時一人の哲学者が天降《あまくだ》って破天荒《はてんこう》の真理を唱道する。その説に曰《いわ》くさ。人間は個性の動物である。個性を滅すれば人間を滅すると同結果に陥《おちい》る。いやしくも人間の意義を完《まった》からしめんためには、いかなる価《あたい》を払うとも構わないからこの個性を保持すると同時に発達せしめなければならん。かの陋習《ろうしゅう》に縛せられて、いやいやながら結婚を執行するのは人間自然の傾向に反した蛮風であって、個性の発達せざる蒙昧《もうまい》の時代はいざ知らず、文明の今日《こんにち》なおこの弊竇《へいとう》に陥《おちい》って恬《てん》として顧《かえり》みないのははなはだしき謬見《びゅうけん》である。開化の高潮度に達せる今代《きんだい》において二個の個性が普通以上に親密の程度をもって連結され得べき理由のあるべきはずがない。この覩易《みやす》き理由はあるにも関らず無教育の青年男女が一時の劣情に駆られて、漫《みだり》に合※[#「丞/(厄−厂)」、第4水準2−3−54]《ごうきん》の式を挙ぐるは悖徳没倫《はいとくぼつりん》のはなはだしき所為である。吾人は人道のため、文明のため、彼等青年男女の個性保護のため、全力を挙げこの蛮風に抵抗せざるべからず……」
「先生私はその説には全然反対です」と東風君はこの時思い切った調子でぴたりと平手《ひらて》で膝頭《ひざがしら》を叩いた。「私の考では世の中に何が尊《たっと》いと云って愛と美ほど尊いものはないと思います。吾々を慰藉《いしゃ》し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭であります。吾人の情操を優美にし、品性を高潔にし、同情を洗錬するのは全く両者の御蔭であります。だから吾人はいつの世いずくに生れてもこの二つのものを忘れることが出来ないです。この二つの者が現実世界にあらわれると、愛は夫婦と云う関係になります。美は詩歌《しいか》、音楽の形式に分れます。それだからいやしくも人類の地球の表面に存在する限りは夫婦と芸術は決して滅する事はなかろうと思います」
「なければ結構だが、今哲学者が云った通りちゃんと滅してしまうから仕方がないと、あきらめるさ。なに芸術だ? 芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展というのは個性の自由と云う意味だろう。個性の自由と云う意味はおれはおれ、人は人と云う意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者《きょうじゅしゃ》の間に個性の一致があるからだろう。君がいくら新体詩家だって踏張《ふんば》っても、君の詩を読んで面白いと云うものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君よりほかに読み手はなくなる訳だろう。鴛鴦歌《えんおうか》をいく篇作ったって始まらないやね。幸いに明治の今日《こんにち》に生れたから、天下が挙《こぞ》って愛読するのだろうが……」
「いえそれほどでもありません」
「今でさえそれほどでなければ、人文《じんぶん》の発達した未来|即《すなわ》ち例の一大哲学者が出て非結婚論を主張する時分には誰もよみ手はなくなるぜ。いや君のだから読まないのじゃない。人々個々《にんにんここ》おのおの特別の個性をもってるから、人の作った詩文などは一向《いっこう》面白くないのさ。現に今でも英国などではこの傾向がちゃんとあらわれている。現今英国の小説家中でもっとも個性のいちじるしい作品にあらわれた、メレジスを見給え、ジェームスを見給え。読み手は極《きわ》めて少ないじゃないか。少ない訳《わけ》さ。あんな作品はあんな個性のある人でなければ読んで面白くないんだから仕方がない。この傾向がだんだん発達して婚姻が不道徳になる時分には芸術も完《まった》く滅亡さ。そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」
「そりゃそうですけれども私はどうも直覚的にそう思われないんです」
「君が直覚的にそう思われなければ、僕は曲覚的《きょっかくてき》にそう思うまでさ」
「曲覚的かも知れないが」と今度は独仙君が口を出す。「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人なんか担《かつ》ぎ出すのも全くこの窮屈のやりどころがなくなって仕方なしにあんな哲学に変形したものだね。ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるが、ありゃ理想じゃない、不平さ。個性の発展した十九世紀にすくんで、隣りの人には心置なく滅多《めった》に寝返りも打てないから、大将少しやけになってあんな乱暴をかき散らしたのだね。あれを読むと壮快と云うよりむしろ気の毒になる。あの声は勇猛精進《ゆうもうしょうじん》の声じゃない、どうしても怨恨痛憤《えんこんつうふん》の音《おん》だ。それもそのはずさ昔は一人えらい人があれば天下|翕然《きゅうぜん》としてその旗下にあつまるのだから、愉快なものさ。こんな愉快が事実に出てくれば何もニーチェ見たように筆と紙の力でこれを書物の上にあらわす必要がない。だからホーマーでもチェヴィ・チェーズでも同じく超人的な性格を写しても感じがまるで違うからね。陽気ださ。愉快にかいてある。愉快な事実があって、この愉快な事実を紙に写しかえたのだから、苦味《にがみ》はないはずだ。ニーチェの時代はそうは行かないよ。英雄なんか一人も出やしない。出たって誰も英雄と立てやしない。昔は孔子《こうし》がたった一人だったから、孔子も幅を利《き》かしたのだが、今は孔子が幾人もいる。ことによると天下がことごとく孔子かも知れない。だからおれは孔子だよと威張っても圧《おし》が利かない
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