らないから死ぬさ」と迷亭が言下《ごんか》に道破《どうは》する。
「死ぬのはなおいやだ」と主人がわからん強情を張る。
「生れる時には誰も熟考して生れるものは有りませんが、死ぬ時には誰も苦にすると見えますね」と寒月君がよそよそしい格言をのべる。
「金を借りるときには何の気なしに借りるが、返す時にはみんな心配するのと同じ事さ」とこんな時にすぐ返事の出来るのは迷亭君である。
「借りた金を返す事を考えないものは幸福であるごとく、死ぬ事を苦にせんものは幸福さ」と独仙君は超然として出世間的《しゅっせけんてき》である。
「君のように云うとつまり図太《ずぶと》いのが悟ったのだね」
「そうさ、禅語に鉄牛面《てつぎゅうめん》の鉄牛心《てつぎゅうしん》、牛鉄面の牛鉄心と云うのがある」
「そうして君はその標本と云う訳かね」
「そうでもない。しかし死ぬのを苦にするようになったのは神経衰弱と云う病気が発明されてから以後の事だよ」
「なるほど君などはどこから見ても神経衰弱以前の民だよ」
迷亭と独仙が妙な掛合《かけあい》をのべつにやっていると、主人は寒月東風二君を相手にしてしきりに文明の不平を述べている。
「どうして借りた金を返さずに済ますかが問題である」
「そんな問題はありませんよ。借りたものは返さなくちゃなりませんよ」
「まあさ。議論だから、だまって聞くがいい。どうして借りた金を返さずに済ますかが問題であるごとく、どうしたら死なずに済むかが問題である。いな問題であった。錬金術《れんきんじゅつ》はこれである。すべての錬金術は失敗した。人間はどうしても死ななければならん事が分明《ぶんみょう》になった」
「錬金術以前から分明ですよ」
「まあさ、議論だから、だまって聞いていろ。いいかい。どうしても死ななければならん事が分明になった時に第二の問題が起る」
「へえ」
「どうせ死ぬなら、どうして死んだらよかろう。これが第二の問題である。自殺クラブはこの第二の問題と共に起るべき運命を有している」
「なるほど」
「死ぬ事は苦しい、しかし死ぬ事が出来なければなお苦しい。神経衰弱の国民には生きている事が死よりもはなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのが厭《いや》だから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。ただたいていのものは智慧《ちえ》が足りないから自然のままに放擲《ほうてき》しておくうちに、世間がいじめ殺してくれる。しかし一と癖あるものは世間からなし崩しにいじめ殺されて満足するものではない。必《かなら》ずや死に方に付いて種々考究の結果、嶄新《ざんしん》な名案を呈出するに違ない。だからして世界|向後《こうご》の趨勢《すうせい》は自殺者が増加して、その自殺者が皆独創的な方法をもってこの世を去るに違ない」
「大分《だいぶ》物騒《ぶっそう》な事になりますね」
「なるよ。たしかになるよ。アーサー・ジョーンスと云う人のかいた脚本のなかにしきりに自殺を主張する哲学者があって……」
「自殺するんですか」
「ところが惜しい事にしないのだがね。しかし今から千年も立てばみんな実行するに相違ないよ。万年の後《のち》には死と云えば自殺よりほかに存在しないもののように考えられるようになる」
「大変な事になりますね」
「なるよきっとなる。そうなると自殺も大分研究が積んで立派な科学になって、落雲館のような中学校で倫理の代りに自殺学を正科として授けるようになる」
「妙ですな、傍聴に出たいくらいのものですね。迷亭先生御聞きになりましたか。苦沙弥先生の御名論を」
「聞いたよ。その時分になると落雲館の倫理の先生はこう云うね。諸君公徳などと云う野蛮の遺風を墨守《ぼくしゅ》してはなりません。世界の青年として諸君が第一に注意すべき義務は自殺である。しかして己《おの》れの好むところはこれを人に施《ほど》こして可なる訳だから、自殺を一歩展開して他殺にしてもよろしい。ことに表の窮措大《きゅうそだい》珍野苦沙弥氏のごときものは生きてござるのが大分苦痛のように見受けらるるから、一刻も早く殺して進ぜるのが諸君の義務である。もっとも昔と違って今日は開明の時節であるから槍《やり》、薙刀《なぎなた》もしくは飛道具の類《たぐい》を用いるような卑怯《ひきょう》な振舞をしてはなりません。ただあてこすりの高尚なる技術によって、からかい殺すのが本人のため功徳《くどく》にもなり、また諸君の名誉にもなるのであります。……」
「なるほど面白い講義をしますね」
「まだ面白い事があるよ。現代では警察が人民の生命財産を保護するのを第一の目的としている。ところがその時分になると巡査が犬殺しのような棍棒《こんぼう》をもって天下の公民を撲殺《ぼくさつ》してあるく。……」
「なぜです」
「なぜって今の人間は生命《いのち》が大事だから警察で保護するんだが、その時分の国民は生きてるのが苦痛だから、巡査が慈悲のために打《ぶ》ち殺してくれるのさ。もっとも少し気の利《き》いたものは大概自殺してしまうから、巡査に打殺《ぶちころ》されるような奴はよくよく意気地なしか、自殺の能力のない白痴もしくは不具者に限るのさ。それで殺されたい人間は門口《かどぐち》へ張札をしておくのだね。なにただ、殺されたい男ありとか女ありとか、はりつけておけば巡査が都合のいい時に巡《まわ》ってきて、すぐ志望通り取計ってくれるのさ。死骸かね。死骸はやっぱり巡査が車を引いて拾ってあるくのさ。まだ面白い事が出来てくる。……」
「どうも先生の冗談《じょうだん》は際限がありませんね」と東風君は大《おおい》に感心している。すると独仙君は例の通り山羊髯《やぎひげ》を気にしながら、のそのそ弁じ出した。
「冗談と云えば冗談だが、予言と云えば予言かも知れない。真理に徹底しないものは、とかく眼前の現象世界に束縛せられて泡沫《ほうまつ》の夢幻《むげん》を永久の事実と認定したがるものだから、少し飛び離れた事を云うと、すぐ冗談にしてしまう」
「燕雀《えんじゃく》焉《いずく》んぞ大鵬《たいほう》の志《こころざし》を知らんやですね」と寒月君が恐れ入ると、独仙君はそうさと云わぬばかりの顔付で話を進める。
「昔《むか》しスペインにコルドヴァと云う所があった……」
「今でもありゃしないか」
「あるかも知れない。今昔の問題はとにかく、そこの風習として日暮れの鐘がお寺で鳴ると、家々の女がことごとく出て来て河へ這入《はい》って水泳をやる……」
「冬もやるんですか」
「その辺はたしかに知らんが、とにかく貴賤老若《きせんろうにゃく》の別なく河へ飛び込む。但《ただ》し男子は一人も交らない。ただ遠くから見ている。遠くから見ていると暮色蒼然《ぼしょくそうぜん》たる波の上に、白い肌《はだえ》が模糊《もこ》として動いている……」
「詩的ですね。新体詩になりますね。なんと云う所ですか」と東風君は裸体《らたい》が出さえすれば前へ乗り出してくる。
「コルドヴァさ。そこで地方の若いものが、女といっしょに泳ぐ事も出来ず、さればと云って遠くから判然その姿を見る事も許されないのを残念に思って、ちょっといたずらをした……」
「へえ、どんな趣向だい」といたずらと聞いた迷亭君は大《おおい》に嬉しがる。
「お寺の鐘つき番に賄賂《わいろ》を使って、日没を合図に撞《つ》く鐘を一時間前に鳴らした。すると女などは浅墓《あさはか》なものだから、そら鐘が鳴ったと云うので、めいめい河岸《かし》へあつまって半襦袢《はんじゅばん》、半股引《はんももひき》の服装でざぶりざぶりと水の中へ飛び込んだ。飛び込みはしたものの、いつもと違って日が暮れない」
「烈《はげ》しい秋の日がかんかんしやしないか」
「橋の上を見ると男が大勢立って眺《なが》めている。恥ずかしいがどうする事も出来ない。大に赤面したそうだ」
「それで」
「それでさ、人間はただ眼前の習慣に迷わされて、根本の原理を忘れるものだから気をつけないと駄目だと云う事さ」
「なるほどありがたい御説教だ。眼前の習慣に迷わされの御話しを僕も一つやろうか。この間ある雑誌をよんだら、こう云う詐欺師《さぎし》の小説があった。僕がまあここで書画|骨董店《こっとうてん》を開くとする。で店頭に大家の幅《ふく》や、名人の道具類を並べておく。無論|贋物《にせもの》じゃない、正直正銘《しょうじきしょうめい》、うそいつわりのない上等品ばかり並べておく。上等品だからみんな高価にきまってる。そこへ物数奇《ものずき》な御客さんが来て、この元信《もとのぶ》の幅はいくらだねと聞く。六百円なら六百円と僕が云うと、その客が欲しい事はほしいが、六百円では手元に持ち合せがないから、残念だがまあ見合せよう」
「そう云うときまってるかい」と主人は相変らず芝居気《しばいぎ》のない事を云う。迷亭君はぬからぬ顔で、
「まあさ、小説だよ。云うとしておくんだ。そこで僕がなに代《だい》は構いませんから、お気に入ったら持っていらっしゃいと云う。客はそうも行かないからと躊躇《ちゅうちょ》する。それじゃ月賦《げっぷ》でいただきましょう、月賦も細く、長く、どうせこれから御贔屓《ごひいき》になるんですから――いえ、ちっとも御遠慮には及びません。どうです月に十円くらいじゃ。何なら月に五円でも構いませんと僕が極《ごく》きさく[#「きさく」に傍点]に云うんだ。それから僕と客の間に二三の問答があって、とど僕が狩野法眼《かのうほうげん》元信の幅を六百円ただし月賦十円払込の事で売渡す」
「タイムスの百科全書見たようですね」
「タイムスはたしかだが、僕のはすこぶる不慥《ふたしか》だよ。これからがいよいよ巧妙なる詐偽に取りかかるのだぜ。よく聞きたまえ月十円ずつで六百円なら何年で皆済《かいさい》になると思う、寒月君」
「無論五年でしょう」
「無論五年。で五年の歳月は長いと思うか短かいと思うか、独仙君」
「一念万年《いちねんばんねん》、万年一念《ばんねんいちねん》。短かくもあり、短かくもなしだ」
「何だそりゃ道歌《どうか》か、常識のない道歌だね。そこで五年の間毎月十円ずつ払うのだから、つまり先方では六十回払えばいいのだ。しかしそこが習慣の恐ろしいところで、六十回も同じ事を毎月繰り返していると、六十一回にもやはり十円払う気になる。六十二回にも十円払う気になる。六十二回六十三回、回を重ねるにしたがってどうしても期日がくれば十円払わなくては気が済まないようになる。人間は利口のようだが、習慣に迷って、根本を忘れると云う大弱点がある。その弱点に乗じて僕が何度でも十円ずつ毎月得をするのさ」
「ハハハハまさか、それほど忘れっぽくもならないでしょう」と寒月君が笑うと、主人はいささか真面目で、
「いやそう云う事は全くあるよ。僕は大学の貸費《たいひ》を毎月毎月勘定せずに返して、しまいに向《むこう》から断わられた事がある」と自分の恥を人間一般の恥のように公言した。
「そら、そう云う人が現にここにいるからたしかなものだ。だから僕の先刻《さっき》述べた文明の未来記を聞いて冗談だなどと笑うものは、六十回でいい月賦を生涯《しょうがい》払って正当だと考える連中だ。ことに寒月君や、東風君のような経験の乏《とぼ》しい青年諸君は、よく僕らの云う事を聞いてだまされないようにしなくっちゃいけない」
「かしこまりました。月賦は必ず六十回限りの事に致します」
「いや冗談のようだが、実際参考になる話ですよ、寒月君」と独仙君は寒月君に向いだした。「たとえばですね。今苦沙弥君か迷亭君が、君が無断で結婚したのが穏当《おんとう》でないから、金田とか云う人に謝罪しろと忠告したら君どうです。謝罪する了見ですか」
「謝罪は御容赦にあずかりたいですね。向うがあやまるなら特別、私の方ではそんな慾はありません」
「警察が君にあやまれと命じたらどうです」
「なおなお御免蒙《ごめんこうむ》ります」
「大臣とか華族ならどうです」
「いよいよもって御免蒙ります」
「それ見たまえ。昔と今とは人間がそれだけ変ってる。昔は御上《おかみ》の御威光なら[#「なら」に傍点]何
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