つかない」
「これからいよいよ弾くところです」
「これからいよいよヴァイオリンを弾くところだよ。こっちへ出て来て、聞きたまえ」
「まだヴァイオリンかい。困ったな」
「君は無絃《むげん》の素琴《そきん》を弾ずる連中だから困らない方なんだが、寒月君のは、きいきいぴいぴい近所合壁《きんじょがっぺき》へ聞えるのだから大《おおい》に困ってるところだ」
「そうかい。寒月君近所へ聞えないようにヴァイオリンを弾く方《ほう》を知らんですか」
「知りませんね、あるなら伺いたいもので」
「伺わなくても露地《ろじ》の白牛《びゃくぎゅう》を見ればすぐ分るはずだが」と、何だか通じない事を云う。寒月君はねぼけてあんな珍語を弄《ろう》するのだろうと鑑定したから、わざと相手にならないで話頭を進めた。
「ようやくの事で一策を案出しました。あくる日は天長節だから、朝からうちにいて、つづらの蓋《ふた》をとって見たり、かぶせて見たり一日《いちんち》そわそわして暮らしてしまいましたがいよいよ日が暮れて、つづらの底で※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》が鳴き出した時思い切って例のヴァイオリンと弓を取り出しました」
「いよいよ出たね」と東風君が云うと「滅多《めった》に弾くとあぶないよ」と迷亭君が注意した。
「まず弓を取って、切先《きっさき》から鍔元《つばもと》までしらべて見る……」
「下手な刀屋じゃあるまいし」と迷亭君が冷評《ひやか》した。
「実際これが自分の魂だと思うと、侍《さむらい》が研《と》ぎ澄した名刀を、長夜《ちょうや》の灯影《ほかげ》で鞘払《さやばらい》をする時のような心持ちがするものですよ。私は弓を持ったままぶるぶるとふるえました」
「全く天才だ」と云う東風君について「全く癲癇《てんかん》だ」と迷亭君がつけた。主人は「早く弾いたらよかろう」と云う。独仙君は困ったものだと云う顔付をする。
「ありがたい事に弓は無難です。今度はヴァイオリンを同じくランプの傍《そば》へ引き付けて、裏表共よくしらべて見る。この間《あいだ》約五分間、つづらの底では始終|※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》が鳴いていると思って下さい。……」
「何とでも思ってやるから安心して弾くがいい」
「まだ弾きゃしません。――幸いヴァイオリンも疵《きず》がない。これなら大丈夫とぬっくと立ち上がる……」
「どっかへ行くのかい」
「まあ少し黙って聞いて下さい。そう一句毎に邪魔をされちゃ話が出来ない。……」
「おい諸君、だまるんだとさ。シーシー」
「しゃべるのは君だけだぜ」
「うん、そうか、これは失敬、謹聴謹聴」
「ヴァイオリンを小脇に抱《か》い込んで、草履《ぞうり》を突《つっ》かけたまま二三歩草の戸を出たが、まてしばし……」
「そらおいでなすった。何でも、どっかで停電するに違ないと思った」
「もう帰ったって甘干しの柿はないぜ」
「そう諸先生が御まぜ返しになってははなはだ遺憾《いかん》の至りだが、東風君一人を相手にするより致し方がない。――いいかね東風君、二三歩出たがまた引き返して、国を出るとき三円二十銭で買った赤毛布《あかげっと》を頭から被《かぶ》ってね、ふっとランプを消すと君|真暗闇《まっくらやみ》になって今度は草履《ぞうり》の所在地《ありか》が判然しなくなった」
「一体どこへ行くんだい」
「まあ聞いてたまい。ようやくの事草履を見つけて、表へ出ると星月夜に柿落葉、赤毛布にヴァイオリン。右へ右へと爪先上《つまさきあが》りに庚申山《こうしんやま》へ差しかかってくると、東嶺寺《とうれいじ》の鐘がボーンと毛布《けっと》を通して、耳を通して、頭の中へ響き渡った。何時《なんじ》だと思う、君」
「知らないね」
「九時だよ。これから秋の夜長をたった一人、山道八丁を大平《おおだいら》と云う所まで登るのだが、平生なら臆病な僕の事だから、恐しくってたまらないところだけれども、一心不乱となると不思議なもので、怖《こわ》いにも怖くないにも、毛頭そんな念はてんで心の中に起らないよ。ただヴァイオリンが弾きたいばかりで胸が一杯になってるんだから妙なものさ。この大平と云う所は庚申山の南側で天気のいい日に登って見ると赤松の間から城下が一目に見下《みおろ》せる眺望佳絶の平地で――そうさ広さはまあ百坪もあろうかね、真中に八畳敷ほどな一枚岩があって、北側は鵜《う》の沼《ぬま》と云う池つづきで、池のまわりは三抱えもあろうと云う樟《くすのき》ばかりだ。山のなかだから、人の住んでる所は樟脳《しょうのう》を採《と》る小屋が一軒あるばかり、池の近辺は昼でもあまり心持ちのいい場所じゃない。幸い工兵が演習のため道を切り開いてくれたから、登るのに骨は折れない。ようやく一枚岩の上へ来て、毛布《けっと》を敷いて、ともかくもその上へ坐った。こんな寒い晩に登ったのは始めてなんだから、岩の上へ坐って少し落ち着くと、あたりの淋《さみ》しさが次第次第に腹の底へ沁《し》み渡る。こう云う場合に人の心を乱すものはただ怖《こわ》いと云う感じばかりだから、この感じさえ引き抜くと、余るところは皎々冽々《こうこうれつれつ》たる空霊の気だけになる。二十分ほど茫然《ぼうぜん》としているうちに何だか水晶で造った御殿のなかに、たった一人住んでるような気になった。しかもその一人住んでる僕のからだが――いやからだばかりじゃない、心も魂もことごとく寒天か何かで製造されたごとく、不思議に透《す》き徹《とお》ってしまって、自分が水晶の御殿の中にいるのだか、自分の腹の中に水晶の御殿があるのだか、わからなくなって来た……」
「飛んだ事になって来たね」と迷亭君が真面目にからかうあとに付いて、独仙君が「面白い境界《きょうがい》だ」と少しく感心したようすに見えた。
「もしこの状態が長くつづいたら、私はあすの朝まで、せっかくのヴァイオリンも弾かずに、茫《ぼん》やり一枚岩の上に坐ってたかも知れないです……」
「狐でもいる所かい」と東風君がきいた。
「こう云う具合で、自他の区別もなくなって、生きているか死んでいるか方角のつかない時に、突然|後《うし》ろの古沼の奥でギャーと云う声がした。……」
「いよいよ出たね」
「その声が遠く反響を起して満山の秋の梢《こずえ》を、野分《のわき》と共に渡ったと思ったら、はっと我に帰った……」
「やっと安心した」と迷亭君が胸を撫《な》でおろす真似をする。
「大死一番《たいしいちばん》乾坤新《けんこんあらた》なり」と独仙君は目くばせをする。寒月君にはちっとも通じない。
「それから、我に帰ってあたりを見廻わすと、庚申山《こうしんやま》一面はしんとして、雨垂れほどの音もしない。はてな今の音は何だろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大き過ぎるし、猿の声にしては――この辺によもや猿はおるまい。何だろう? 何だろうと云う問題が頭のなかに起ると、これを解釈しようと云うので今まで静まり返っていたやからが、紛然《ふんぜん》雑然《ざつぜん》糅然《じゅうぜん》としてあたかもコンノート殿下歓迎の当時における都人士狂乱の態度を以《もっ》て脳裏をかけ廻る。そのうちに総身《そうしん》の毛穴が急にあいて、焼酎《しょうちゅう》を吹きかけた毛脛《けずね》のように、勇気、胆力、分別、沈着などと号するお客様がすうすうと蒸発して行く。心臓が肋骨の下でステテコを踊り出す。両足が紙鳶《たこ》のうなりのように震動をはじめる。これはたまらん。いきなり、毛布《けっと》を頭からかぶって、ヴァイオリンを小脇に掻《か》い込んでひょろひょろと一枚岩を飛び下りて、一目散に山道八丁を麓《ふもと》の方へかけ下りて、宿へ帰って布団《ふとん》へくるまって寝てしまった。今考えてもあんな気味のわるかった事はないよ、東風君」
「それから」
「それでおしまいさ」
「ヴァイオリンは弾かないのかい」
「弾きたくっても、弾かれないじゃないか。ギャーだもの。君だってきっと弾かれないよ」
「何だか君の話は物足りないような気がする」
「気がしても事実だよ。どうです先生」と寒月君は一座を見廻わして大得意のようすである。
「ハハハハこれは上出来。そこまで持って行くにはだいぶ苦心惨憺たるものがあったのだろう。僕は男子のサンドラ・ベロニが東方君子の邦《くに》に出現するところかと思って、今が今まで真面目に拝聴していたんだよ」と云った迷亭君は誰かサンドラ・ベロニの講釈でも聞くかと思のほか、何にも質問が出ないので「サンドラ・ベロニが月下に竪琴《たてごと》を弾いて、以太利亜風《イタリアふう》の歌を森の中でうたってるところは、君の庚申山《こうしんやま》へヴァイオリンをかかえて上《のぼ》るところと同曲にして異巧なるものだね。惜しい事に向うは月中《げっちゅう》の嫦娥《じょうが》を驚ろかし、君は古沼《ふるぬま》の怪狸《かいり》におどろかされたので、際《きわ》どいところで滑稽《こっけい》と崇高の大差を来たした。さぞ遺憾《いかん》だろう」と一人で説明すると、
「そんなに遺憾ではありません」と寒月君は存外平気である。
「全体山の上でヴァイオリンを弾こうなんて、ハイカラをやるから、おどかされるんだ」と今度は主人が酷評を加えると、
「好漢《こうかん》この鬼窟裏《きくつり》に向って生計を営む。惜しい事だ」と独仙君は嘆息した。すべて独仙君の云う事は決して寒月君にわかったためしがない。寒月君ばかりではない、おそらく誰にでもわからないだろう。
「そりゃ、そうと寒月君、近頃でも矢張り学校へ行って珠《たま》ばかり磨いてるのかね」と迷亭先生はしばらくして話頭を転じた。
「いえ、こないだうちから国へ帰省していたもんですから、暫時《ざんじ》中止の姿です。珠ももうあきましたから、実はよそうかと思ってるんです」
「だって珠が磨けないと博士にはなれんぜ」と主人は少しく眉をひそめたが、本人は存外気楽で、
「博士ですか、エヘヘヘヘ。博士ならもうならなくってもいいんです」
「でも結婚が延びて、双方困るだろう」
「結婚って誰の結婚です」
「君のさ」
「私が誰と結婚するんです」
「金田の令嬢さ」
「へええ」
「へえって、あれほど約束があるじゃないか」
「約束なんかありゃしません、そんな事を言い触《ふ》らすなあ、向うの勝手です」
「こいつは少し乱暴だ。ねえ迷亭、君もあの一件は知ってるだろう」
「あの一件た、鼻事件かい。あの事件なら、君と僕が知ってるばかりじゃない、公然の秘密として天下一般に知れ渡ってる。現に万朝《まんちょう》なぞでは花聟花嫁と云う表題で両君の写真を紙上に掲ぐるの栄はいつだろう、いつだろうって、うるさく僕のところへ聞きにくるくらいだ。東風君なぞはすでに鴛鴦歌《えんおうか》と云う一大長篇を作って、三箇月|前《ぜん》から待ってるんだが、寒月君が博士にならないばかりで、せっかくの傑作も宝の持ち腐れになりそうで心配でたまらないそうだ。ねえ、東風君そうだろう」
「まだ心配するほど持ちあつかってはいませんが、とにかく満腹の同情をこめた作を公けにするつもりです」
「それ見たまえ、君が博士になるかならないかで、四方八方へ飛んだ影響が及んでくるよ。少ししっかりして、珠を磨いてくれたまえ」
「へへへへいろいろ御心配をかけて済みませんが、もう博士にはならないでもいいのです」
「なぜ」
「なぜって、私にはもう歴然《れっき》とした女房があるんです」
「いや、こりゃえらい。いつの間《ま》に秘密結婚をやったのかね。油断のならない世の中だ。苦沙弥さんだた今御聞き及びの通り寒月君はすでに妻子があるんだとさ」
「子供はまだですよ。そう結婚して一と月もたたないうちに子供が生れちゃ事でさあ」
「元来いつどこで結婚したんだ」と主人は予審判事見たような質問をかける。
「いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。今日先生の所へ持って来た、この鰹節《かつぶし》は結婚祝に親類から貰ったんです」
「たった三本祝うのはけちだな」
「なに沢山のうちを三本だけ持って来たのです」
「じゃ御国の女だね、やっぱり色が
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