同価《どうね》かと聞くと、へえ、どれでも変りはございません。みんな丈夫に念を入れて拵《こし》らえてございますと云いますから、蝦蟇口《がまぐち》のなかから五円札と銀貨を二十銭出して用意の大風呂敷を出してヴァイオリンを包みました。この間《あいだ》、店のものは話を中止してじっと私の顔を見ています。顔は頭巾でかくしてあるから分る気遣《きづかい》はないのですけれども何だか気がせいて一刻も早く往来へ出たくて堪《たま》りません。ようやくの事風呂敷包を外套《がいとう》の下へ入れて、店を出たら、番頭が声を揃《そろ》えてありがとうと大きな声を出したのにはひやっとしました。往来へ出てちょっと見廻して見ると、幸《さいわい》誰もいないようですが、一丁ばかり向《むこう》から二三人して町内中に響けとばかり詩吟をして来ます。こいつは大変だと金善の角を西へ折れて濠端《ほりばた》を薬王師道《やくおうじみち》へ出て、はんの木村から庚申山《こうしんやま》の裾《すそ》へ出てようやく下宿へ帰りました。下宿へ帰って見たらもう二時十分前でした」
「夜通しあるいていたようなものだね」と東風君が気の毒そうに云うと「やっと上がった。やれやれ長い道中双六《どうちゅうすごろく》だ」と迷亭君はほっと一と息ついた。
「これからが聞きどころですよ。今までは単に序幕です」
「まだあるのかい。こいつは容易な事じゃない。たいていのものは君に逢っちゃ根気負けをするね」
「根気はとにかく、ここでやめちゃ仏作って魂入れずと一般ですから、もう少し話します」
「話すのは無論随意さ。聞く事は聞くよ」
「どうです苦沙弥先生も御聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。ええ先生」
「こん度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくってもいい」
「まだ売るどこじゃありません」
「そんならなお聞かなくてもいい」
「どうも困るな、東風君、君だけだね、熱心に聞いてくれるのは。少し張合が抜けるがまあ仕方がない、ざっと話してしまおう」
「ざっとでなくてもいいから緩《ゆっ》くり話したまえ。大変面白い」
「ヴァイオリンはようやくの思で手に入れたが、まず第一に困ったのは置き所だね。僕の所へは大分《だいぶ》人が遊びにくるから滅多《めった》な所へぶらさげたり、立て懸けたりするとすぐ露見してしまう。穴を掘って埋めちゃ掘り出すのが面倒だろう」
「そうさ、天井裏へでも隠したかい」と東風君は気楽な事を云う。
「天井はないさ。百姓家《ひゃくしょうや》だもの」
「そりゃ困ったろう。どこへ入れたい」
「どこへ入れたと思う」
「わからないね。戸袋のなかか」
「いいえ」
「夜具にくるんで戸棚へしまったか」
「いいえ」
 東風君と寒月君はヴァイオリンの隠《かく》れ家《が》についてかくのごとく問答をしているうちに、主人と迷亭君も何かしきりに話している。
「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
「何だって? 〔Quid aliud est mulier nisi amicitiae& inimica〕[#「〔amicitiae&〕」は底本では「amiticiae」]……こりゃ君|羅甸語《ラテンご》じゃないか」
「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」
「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」
「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」
「何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ」
「見ろは烈しいね。まるで従卒のようだね」
「従卒でもいいから何だ」
「まあ羅甸語などはあとにして、ちょっと寒月君のご高話を拝聴|仕《つかまつ》ろうじゃないか。今大変なところだよ。いよいよ露見するか、しないか危機一髪と云う安宅《あたか》の関《せき》へかかってるんだ。――ねえ寒月君それからどうしたい」と急に乗気になって、またヴァイオリンの仲間入りをする。主人は情《なさ》けなくも取り残された。寒月君はこれに勢を得て隠し所を説明する。
「とうとう古つづらの中へ隠しました。このつづらは国を出る時|御祖母《おばあ》さんが餞別にくれたものですが、何でも御祖母さんが嫁にくる時持って来たものだそうです」
「そいつは古物《こぶつ》だね。ヴァイオリンとは少し調和しないようだ。ねえ東風君」
「ええ、ちと調和せんです」
「天井裏だって調和しないじゃないか」と寒月君は東風先生をやり込めた。
「調和はしないが、句にはなるよ、安心し給え。秋淋《あきさび》しつづらにかくすヴァイオリンはどうだい、両君」
「先生今日は大分《だいぶ》俳句が出来ますね」
「今日に限った事じゃない。いつでも腹の中で出来てるのさ。僕の俳句における造詣《ぞうけい》と云ったら、故子規子《こしきし》も舌を捲《ま》いて驚ろいたくらいのものさ」
「先生、子規さんとは御つき合でしたか」と正直な東風君は真率《しんそつ》な質問をかける。
「なにつき合わなくっても始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ」と無茶苦茶を云うので、東風先生あきれて黙ってしまった。寒月君は笑いながらまた進行する。
「それで置き所だけは出来た訳だが、今度は出すのに困った。ただ出すだけなら人目を掠《かす》めて眺《なが》めるくらいはやれん事はないが、眺めたばかりじゃ何にもならない。弾《ひ》かなければ役に立たない。弾けば音が出る。出ればすぐ露見する。ちょうど木槿垣《むくげがき》を一重隔てて南隣りは沈澱組《ちんでんぐみ》の頭領が下宿しているんだから剣呑《けんのん》だあね」
「困るね」と東風君が気の毒そうに調子を合わせる。
「なるほど、こりゃ困る。論より証拠音が出るんだから、小督《こごう》の局《つぼね》も全くこれでしくじったんだからね。これがぬすみ食をするとか、贋札《にせさつ》を造るとか云うなら、まだ始末がいいが、音曲《おんぎょく》は人に隠しちゃ出来ないものだからね」
「音さえ出なければどうでも出来るんですが……」
「ちょっと待った。音さえ出なけりゃと云うが、音が出なくても隠《かく》し了《おお》せないのがあるよ。昔《むか》し僕等が小石川の御寺で自炊をしている時分に鈴木の藤《とう》さんと云う人がいてね、この藤さんが大変|味淋《みりん》がすきで、ビールの徳利《とっくり》へ味淋を買って来ては一人で楽しみに飲んでいたのさ。ある日|藤《とう》さんが散歩に出たあとで、よせばいいのに苦沙弥君がちょっと盗んで飲んだところが……」
「おれが鈴木の味淋などをのむものか、飲んだのは君だぜ」と主人は突然大きな声を出した。
「おや本を読んでるから大丈夫かと思ったら、やはり聞いてるね。油断の出来ない男だ。耳も八丁、目も八丁とは君の事だ。なるほど云われて見ると僕も飲んだ。僕も飲んだには相違ないが、発覚したのは君の方だよ。――両君まあ聞きたまえ。苦沙弥先生元来酒は飲めないのだよ。ところを人の味淋だと思って一生懸命に飲んだものだから、さあ大変、顔中|真赤《まっか》にはれ上ってね。いやもう二目《ふため》とは見られないありさまさ……」
「黙っていろ。羅甸語《ラテンご》も読めない癖に」
「ハハハハ、それで藤《とう》さんが帰って来てビールの徳利をふって見ると、半分以上足りない。何でも誰か飲んだに相違ないと云うので見廻して見ると、大将隅の方に朱泥《しゅでい》を練りかためた人形のようにかたくなっていらあね……」
 三人は思わず哄然《こうぜん》と笑い出した。主人も本をよみながら、くすくすと笑った。独《ひと》り独仙君に至っては機外《きがい》の機《き》を弄《ろう》し過ぎて、少々疲労したと見えて、碁盤の上へのしかかって、いつの間《ま》にやら、ぐうぐう寝ている。
「まだ音がしないもので露見した事がある。僕が昔し姥子《うばこ》の温泉に行って、一人のじじいと相宿になった事がある。何でも東京の呉服屋の隠居か何かだったがね。まあ相宿だから呉服屋だろうが、古着屋だろうが構う事はないが、ただ困った事が一つ出来てしまった。と云うのは僕は姥子《うばこ》へ着いてから三日目に煙草《たばこ》を切らしてしまったのさ。諸君も知ってるだろうが、あの姥子と云うのは山の中の一軒屋でただ温泉に這入《はい》って飯を食うよりほかにどうもこうも仕様のない不便の所さ。そこで煙草を切らしたのだから御難だね。物はないとなるとなお欲しくなるもので、煙草がないなと思うやいなや、いつもそんなでないのが急に呑みたくなり出してね。意地のわるい事に、そのじじいが風呂敷に一杯煙草を用意して登山しているのさ。それを少しずつ出しては、人の前で胡坐《あぐら》をかいて呑みたいだろうと云わないばかりに、すぱすぱふかすのだね。ただふかすだけなら勘弁のしようもあるが、しまいには煙を輪に吹いて見たり、竪《たて》に吹いたり、横に吹いたり、乃至《ないし》は邯鄲《かんたん》夢《ゆめ》の枕《まくら》と逆《ぎゃく》に吹いたり、または鼻から獅子の洞入《ほらい》り、洞返《ほらがえ》りに吹いたり。つまり呑みびらかすんだね……」
「何です、呑みびらかすと云うのは」
「衣装道具《いしょうどうぐ》なら見せびらかすのだが、煙草だから呑みびらかすのさ」
「へえ、そんな苦しい思いをなさるより貰ったらいいでしょう」
「ところが貰わないね。僕も男子だ」
「へえ、貰っちゃいけないんですか」
「いけるかも知れないが、貰わないね」
「それでどうしました」
「貰わないで偸《ぬす》んだ」
「おやおや」
「奴さん手拭《てぬぐい》をぶらさげて湯に出掛けたから、呑むならここだと思って一心不乱立てつづけに呑んで、ああ愉快だと思う間《ま》もなく、障子《しょうじ》がからりとあいたから、おやと振り返ると煙草の持ち主さ」
「湯には這入らなかったのですか」
「這入ろうと思ったら巾着《きんちゃく》を忘れたのに気がついて、廊下から引き返したんだ。人が巾着でもとりゃしまいし第一それからが失敬さ」
「何とも云えませんね。煙草の御手際《おてぎわ》じゃ」
「ハハハハじじいもなかなか眼識があるよ。巾着はとにかくだが、じいさんが障子をあけると二日間の溜め呑みをやった煙草の煙りがむっとするほど室《へや》のなかに籠《こも》ってるじゃないか、悪事千里とはよく云ったものだね。たちまち露見してしまった」
「じいさん何とかいいましたか」
「さすが年の功だね、何にも言わずに巻煙草《まきたばこ》を五六十本半紙にくるんで、失礼ですが、こんな粗葉《そは》でよろしければどうぞお呑み下さいましと云って、また湯壺《ゆつぼ》へ下りて行ったよ」
「そんなのが江戸趣味と云うのでしょうか」
「江戸趣味だか、呉服屋趣味だか知らないが、それから僕は爺さんと大《おおい》に肝胆相照《かんたんあいて》らして、二週間の間面白く逗留《とうりゅう》して帰って来たよ」
「煙草は二週間中爺さんの御馳走になったんですか」
「まあそんなところだね」
「もうヴァイオリンは片ついたかい」と主人はようやく本を伏せて、起き上りながらついに降参を申し込んだ。
「まだです。これからが面白いところです、ちょうどいい時ですから聞いて下さい。ついでにあの碁盤の上で昼寝をしている先生――何とか云いましたね、え、独仙先生、――独仙先生にも聞いていただきたいな。どうですあんなに寝ちゃ、からだに毒ですぜ。もう起してもいいでしょう」
「おい、独仙君、起きた起きた。面白い話がある。起きるんだよ。そう寝ちゃ毒だとさ。奥さんが心配だとさ」
「え」と云いながら顔を上げた独仙君の山羊髯《やぎひげ》を伝わって垂涎《よだれ》が一筋長々と流れて、蝸牛《かたつむり》の這った迹《あと》のように歴然と光っている。
「ああ、眠かった。山上の白雲わが懶《ものう》きに似たりか。ああ、いい心持ちに寝《ね》たよ」
「寝たのはみんなが認めているのだがね。ちっと起きちゃどうだい」
「もう、起きてもいいね。何か面白い話があるかい」
「これからいよいよヴァイオリンを――どうするんだったかな、苦沙弥君」
「どうするのかな、とんと見当《けんとう》が
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