よ」
「そうだろう、芸術家は本来多情多恨だから、泣いた事には同情するが、話はもっと早く進行させたいものだね」と東風君は人がいいから、どこまでも真面目で滑稽《こっけい》な挨拶をしている。
「進行させたいのは山々だが、どうしても日が暮れてくれないものだから困るのさ」
「そう日が暮れなくちゃ聞く方も困るからやめよう」と主人がとうとう我慢がし切れなくなったと見えて云い出した。
「やめちゃなお困ります。これからがいよいよ佳境に入《い》るところですから」
「それじゃ聞くから、早く日が暮れた事にしたらよかろう」
「では、少しご無理なご注文ですが、先生の事ですから、枉《ま》げて、ここは日が暮れた事に致しましょう」
「それは好都合だ」と独仙君が澄まして述べられたので一同は思わずどっと噴き出した。
「いよいよ夜《よ》に入ったので、まず安心とほっと一息ついて鞍懸村《くらかけむら》の下宿を出ました。私は性来《しょうらい》騒々《そうぞう》しい所が嫌《きらい》ですから、わざと便利な市内を避けて、人迹稀《じんせきまれ》な寒村の百姓家にしばらく蝸牛《かぎゅう》の庵《いおり》を結んでいたのです……」
「人迹の稀な[#「人迹の稀な」に傍点]はあんまり大袈裟《おおげさ》だね」と主人が抗議を申し込むと「蝸牛の庵も仰山《ぎょうさん》だよ。床の間なしの四畳半くらいにしておく方が写生的で面白い」と迷亭君も苦情を持ち出した。東風君だけは「事実はどうでも言語が詩的で感じがいい」と褒《ほ》めた。独仙君は真面目な顔で「そんな所に住んでいては学校へ通うのが大変だろう。何里くらいあるんですか」と聞いた。
「学校まではたった四五丁です。元来学校からして寒村にあるんですから……」
「それじゃ学生はその辺にだいぶ宿をとってるんでしょう」と独仙君はなかなか承知しない。
「ええ、たいていな百姓家には一人や二人は必ずいます」
「それで人迹稀なんですか」と正面攻撃を喰《くら》わせる。
「ええ学校がなかったら、全く人迹は稀ですよ。……で当夜の服装と云うと、手織木綿《ておりもめん》の綿入の上へ金釦《きんボタン》の制服|外套《がいとう》を着て、外套の頭巾《ずきん》をすぽりと被《かぶ》ってなるべく人の目につかないような注意をしました。折柄《おりから》柿落葉の時節で宿から南郷街道《なんごうかいどう》へ出るまでは木《こ》の葉で路が一杯です。一歩《ひとあし》運ぶごとにがさがさするのが気にかかります。誰かあとをつけて来そうでたまりません。振り向いて見ると東嶺寺《とうれいじ》の森がこんもりと黒く、暗い中に暗く写っています。この東嶺寺と云うのは松平家《まつだいらけ》の菩提所《ぼだいしょ》で、庚申山《こうしんやま》の麓《ふもと》にあって、私の宿とは一丁くらいしか隔《へだた》っていない、すこぶる幽邃《ゆうすい》な梵刹《ぼんせつ》です。森から上はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋違《すじかい》に横切って末は――末は、そうですね、まず布哇《ハワイ》の方へ流れています……」
「布哇は突飛だね」と迷亭君が云った。
「南郷街道をついに二丁来て、鷹台町《たかのだいまち》から市内に這入って、古城町《こじょうまち》を通って、仙石町《せんごくまち》を曲って、喰代町《くいしろちょう》を横に見て、通町《とおりちょう》を一丁目、二丁目、三丁目と順に通り越して、それから尾張町《おわりちょう》、名古屋町《なごやちょう》、鯱鉾町《しゃちほこちょう》、蒲鉾町《かまぼこちょう》……」
「そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と主人がじれったそうに聞く。
「楽器のある店は金善《かねぜん》即ち金子善兵衛方ですから、まだなかなかです」
「なかなかでもいいから早く買うがいい」
「かしこまりました。それで金善方へ来て見ると、店にはランプがかんかんともって……」
「またかんかんか、君のかんかんは一度や二度で済まないんだから難渋《なんじゅう》するよ」と今度は迷亭が予防線を張った。
「いえ、今度のかんかんは、ほんの通り一返のかんかんですから、別段御心配には及びません。……灯影《ほかげ》にすかして見ると例のヴァイオリンが、ほのかに秋の灯《ひ》を反射して、くり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びています。つよく張った琴線《きんせん》の一部だけがきらきらと白く眼に映《うつ》ります。……」
「なかなか叙述がうまいや」と東風君がほめた。
「あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に動悸《どうき》がして足がふらふらします……」
「ふふん」と独仙君が鼻で笑った。
「思わず馳《か》け込んで、隠袋《かくし》から蝦蟇口《がまぐち》を出して、蝦蟇口の中から五円札を二枚出して……」
「とうとう買ったかい」と主人がきく。
「買おうと思いましたが、まてしばし、ここが肝心《かんじん》のところだ。滅多《めった》な事をしては失敗する。まあよそうと、際《きわ》どいところで思い留まりました」
「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一梃でなかなか人を引っ張るじゃないか」
「引っ張る訳じゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません」
「なぜ」
「なぜって、まだ宵《よい》の口で人が大勢通るんですもの」
「構わんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君はよっぽど妙な男だ」と主人はぷんぷんしている。
「ただの人なら千が二千でも構いませんがね、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って徘徊《はいかい》しているんだから容易に手を出せませんよ。中には沈澱党《ちんでんとう》などと号して、いつまでもクラスの底に溜まって喜んでるのがありますからね。そんなのに限って柔道は強いのですよ。滅多《めった》にヴァイオリンなどに手出しは出来ません。どんな目に逢《あ》うかわかりません。私だってヴァイオリンは欲しいに相違ないですけれども、命はこれでも惜しいですからね。ヴァイオリンを弾《ひ》いて殺されるよりも、弾かずに生きてる方が楽ですよ」
「それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と主人が念を押す。
「いえ、買ったのです」
「じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早くかたをつけたらよさそうなものだ」
「えへへへへ、世の中の事はそう、こっちの思うように埒《らち》があくもんじゃありませんよ」と云いながら寒月君は冷然と「朝日」へ火をつけてふかし出した。
主人は面倒になったと見えて、ついと立って書斎へ這入《はい》ったと思ったら、何だか古ぼけた洋書を一冊持ち出して来て、ごろりと腹這《はらばい》になって読み始めた。独仙君はいつの間《ま》にやら、床の間の前へ退去して、独《ひと》りで碁石を並べて一人相撲《ひとりずもう》をとっている。せっかくの逸話もあまり長くかかるので聴手が一人減り二人減って、残るは芸術に忠実なる東風君と、長い事にかつて辟易《へきえき》した事のない迷亭先生のみとなる。
長い煙をふうと世の中へ遠慮なく吹き出した寒月君は、やがて前同様《ぜんどうよう》の速度をもって談話をつづける。
「東風君、僕はその時こう思ったね。とうていこりゃ宵の口は駄目だ、と云って真夜中に来れば金善は寝てしまうからなお駄目だ。何でも学校の生徒が散歩から帰りつくして、そうして金善がまだ寝ない時を見計らって来なければ、せっかくの計画が水泡に帰する。けれどもその時間をうまく見計うのがむずかしい」
「なるほどこりゃむずかしかろう」
「で僕はその時間をまあ十時頃と見積ったね。それで今から十時頃までどこかで暮さなければならない。うちへ帰って出直すのは大変だ。友達のうちへ話しに行くのは何だか気が咎《とが》めるようで面白くなし、仕方がないから相当の時間がくるまで市中を散歩する事にした。ところが平生ならば二時間や三時間はぶらぶらあるいているうちに、いつの間《ま》にか経ってしまうのだがその夜《よ》に限って、時間のたつのが遅いの何のって、――千秋《せんしゅう》の思とはあんな事を云うのだろうと、しみじみ感じました」とさも感じたらしい風をしてわざと迷亭先生の方を向く。
「古人を待つ身につらき置炬燵《おきごたつ》と云われた事があるからね、また待たるる身より待つ身はつらいともあって軒に吊られたヴァイオリンもつらかったろうが、あてのない探偵のようにうろうろ、まごついている君はなおさらつらいだろう。累々《るいるい》として喪家《そうか》の犬のごとし。いや宿のない犬ほど気の毒なものは実際ないよ」
「犬は残酷ですね。犬に比較された事はこれでもまだありませんよ」
「僕は何だか君の話をきくと、昔《むか》しの芸術家の伝を読むような気持がして同情の念に堪《た》えない。犬に比較したのは先生の冗談《じょうだん》だから気に掛けずに話を進行したまえ」と東風君は慰藉《いしゃ》した。慰藉されなくても寒月君は無論話をつづけるつもりである。
「それから徒町《おかちまち》から百騎町《ひゃっきまち》を通って、両替町《りょうがえちょう》から鷹匠町《たかじょうまち》へ出て、県庁の前で枯柳の数を勘定して病院の横で窓の灯《ひ》を計算して、紺屋橋《こんやばし》の上で巻煙草《まきたばこ》を二本ふかして、そうして時計を見た。……」
「十時になったかい」
「惜しい事にならないね。――紺屋橋を渡り切って川添に東へ上《のぼ》って行くと、按摩《あんま》に三人あった。そうして犬がしきりに吠《ほ》えましたよ先生……」
「秋の夜長に川端で犬の遠吠をきくのはちょっと芝居がかりだね。君は落人《おちゅうど》と云う格だ」
「何かわるい事でもしたんですか」
「これからしようと云うところさ」
「可哀相《かわいそう》にヴァイオリンを買うのが悪い事じゃ、音楽学校の生徒はみんな罪人ですよ」
「人が認めない事をすれば、どんないい事をしても罪人さ、だから世の中に罪人ほどあてにならないものはない。耶蘇《ヤソ》もあんな世に生れれば罪人さ。好男子寒月君もそんな所でヴァイオリンを買えば罪人さ」
「それじゃ負けて罪人としておきましょう。罪人はいいですが十時にならないのには弱りました」
「もう一|返《ぺん》、町の名を勘定するさ。それで足りなければまた秋の日をかんかんさせるさ。それでもおっつかなければまた甘干しの渋柿を三ダースも食うさ。いつまでも聞くから十時になるまでやりたまえ」
寒月先生はにやにやと笑った。
「そう先《せん》を越されては降参するよりほかはありません。それじゃ一足飛びに十時にしてしまいましょう。さて御約束の十時になって金善《かねぜん》の前へ来て見ると、夜寒の頃ですから、さすが目貫《めぬき》の両替町《りょうがえちょう》もほとんど人通りが絶えて、向《むこう》からくる下駄の音さえ淋《さみ》しい心持ちです。金善ではもう大戸をたてて、わずかに潜《くぐ》り戸《と》だけを障子《しょうじ》にしています。私は何となく犬に尾《つ》けられたような心持で、障子をあけて這入《はい》るのに少々薄気味がわるかったです……」
この時主人はきたならしい本からちょっと眼をはずして、「おいもうヴァイオリンを買ったかい」と聞いた。「これから買うところです」と東風君が答えると「まだ買わないのか、実に永いな」と独《ひと》り言《ごと》のように云ってまた本を読み出した。独仙君は無言のまま、白と黒で碁盤を大半|埋《うず》めてしまった。
「思い切って飛び込んで、頭巾《ずきん》を被《かぶ》ったままヴァイオリンをくれと云いますと、火鉢の周囲に四五人小僧や若僧がかたまって話をしていたのが驚いて、申し合せたように私の顔を見ました。私は思わず右の手を挙げて頭巾をぐいと前の方に引きました。おいヴァイオリンをくれと二度目に云うと、一番前にいて、私の顔を覗《のぞ》き込むようにしていた小僧がへえと覚束《おぼつか》ない返事をして、立ち上がって例の店先に吊《つ》るしてあったのを三四梃一度に卸《おろ》して来ました。いくらかと聞くと五円二十銭だと云います……」
「おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか」
「みんな
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