ち》あれからして乙《おつ》だね。そうして塩風に吹かれつけているせいか、どうも、色が黒いね。男だからあれで済むが女があれじゃさぞかし困るだろう」と迷亭君が一人|這入《はい》ると肝心《かんじん》の話はどっかへ飛んで行ってしまう。
「女もあの通り黒いのです」
「それでよく貰い手があるね」
「だって一国中《いっこくじゅう》ことごとく黒いのだから仕方がありません」
「因果《いんが》だね。ねえ苦沙弥君」
「黒い方がいいだろう。生《なま》じ白いと鏡を見るたんびに己惚《おのぼれ》が出ていけない。女と云うものは始末におえない物件だからなあ」と主人は喟然《きぜん》として大息《たいそく》を洩《も》らした。
「だって一国中ことごとく黒ければ、黒い方で己惚《うぬぼ》れはしませんか」と東風君がもっともな質問をかけた。
「ともかくも女は全然不必要な者だ」と主人が云うと、
「そんな事を云うと妻君が後でご機嫌がわるいぜ」と笑いながら迷亭先生が注意する。
「なに大丈夫だ」
「いないのかい」
「小供を連れて、さっき出掛けた」
「どうれで静かだと思った。どこへ行ったのだい」
「どこだか分らない。勝手に出てあるくのだ」
「そうして勝手に帰ってくるのかい」
「まあそうだ。君は独身でいいなあ」と云うと東風君は少々不平な顔をする。寒月君はにやにやと笑う。迷亭君は
「妻《さい》を持つとみんなそう云う気になるのさ。ねえ独仙君、君なども妻君難の方だろう」
「ええ? ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十七と。狭いと思ったら、四十六|目《もく》あるか。もう少し勝ったつもりだったが、こしらえて見ると、たった十八目の差か。――何だって?」
「君も妻君難だろうと云うのさ」
「アハハハハ別段難でもないさ。僕の妻《さい》は元来僕を愛しているのだから」
「そいつは少々失敬した。それでこそ独仙君だ」
「独仙君ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と寒月君が天下の妻君に代ってちょっと弁護の労を取った。
「僕も寒月君に賛成する。僕の考では人間が絶対の域《いき》に入《い》るには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と恋だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間は是非結婚をして、この幸福を完《まっと》うしなければ天意に背《そむ》く訳だと思うんだ。――がどうでしょう先生」と東風君は相変らず真面目で迷亭君の方へ向き直った。
「御名論だ。僕などはとうてい絶対の境《きょう》に這入《はい》れそうもない」
「妻《さい》を貰えばなお這入れやしない」と主人はむずかしい顔をして云った。
「ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義が分からないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月君にさっきから経験譚《けいけんだん》をきいているのです」
「そうそう、ウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴するはずだったね。さあ話し給え。もう邪魔はしないから」と迷亭君がようやく鋒鋩《ほうぼう》を収めると、
「向上の一路はヴァイオリンなどで開ける者ではない。そんな遊戯三昧《ゆうぎざんまい》で宇宙の真理が知れては大変だ。這裡《しゃり》の消息を知ろうと思えばやはり懸崖《けんがい》に手を撒《さっ》して、絶後《ぜつご》に再び蘇《よみが》える底《てい》の気魄《きはく》がなければ駄目だ」と独仙君はもったい振って、東風君に訓戒じみた説教をしたのはよかったが、東風君は禅宗のぜの字も知らない男だから頓《とん》と感心したようすもなく
「へえ、そうかも知れませんが、やはり芸術は人間の渇仰《かつごう》の極致を表わしたものだと思いますから、どうしてもこれを捨てる訳には参りません」
「捨てる訳に行かなければ、お望み通り僕のヴァイオリン談をして聞かせる事にしよう、で今話す通りの次第だから僕もヴァイオリンの稽古をはじめるまでには大分《だいぶ》苦心をしたよ。第一買うのに困りましたよ先生」
「そうだろう麻裏草履《あさうらぞうり》がない土地にヴァイオリンがあるはずがない」
「いえ、ある事はあるんです。金も前から用意して溜めたから差支《さしつか》えないのですが、どうも買えないのです」
「なぜ?」
「狭い土地だから、買っておればすぐ見つかります。見つかれば、すぐ生意気だと云うので制裁を加えられます」
「天才は昔から迫害を加えられるものだからね」と東風君は大《おおい》に同情を表した。
「また天才か、どうか天才呼ばわりだけは御免蒙《ごめんこうむ》りたいね。それでね毎日散歩をしてヴァイオリンのある店先を通るたびにあれが買えたら好かろう、あれを手に抱《かか》えた心持ちはどんなだろう、ああ欲しい、ああ欲しいと思わない日は一日《いちんち》もなかったのです」
「もっともだ」と評したのは迷亭で、「妙に凝《こ》ったものだね」と解《げ》しかねたのが主人で、「やはり君、天才だよ」と敬服したのは東風君である。ただ独仙君ばかりは超然として髯《ひげ》を撚《ねん》している。
「そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが第一ご不審かも知れないですが、これは考えて見ると当り前の事です。なぜと云うとこの地方でも女学校があって、女学校の生徒は課業として毎日ヴァイオリンを稽古しなければならないのですから、あるはずです。無論いいのはありません。ただヴァイオリンと云う名が辛《かろ》うじてつくくらいのものであります。だから店でもあまり重きをおいていないので、二三梃いっしょに店頭へ吊《つ》るしておくのです。それがね、時々散歩をして前を通るときに風が吹きつけたり、小僧の手が障《さわ》ったりして、そら音《ね》を出す事があります。その音《ね》を聞くと急に心臓が破裂しそうな心持で、いても立ってもいられなくなるんです」
「危険だね。水癲癇《みずてんかん》、人癲癇《ひとでんかん》と癲癇にもいろいろ種類があるが君のはウェルテルだけあって、ヴァイオリン癲癇だ」と迷亭君が冷やかすと、
「いやそのくらい感覚が鋭敏でなければ真の芸術家にはなれないですよ。どうしても天才肌だ」と東風君はいよいよ感心する。
「ええ実際|癲癇《てんかん》かも知れませんが、しかしあの音色《ねいろ》だけは奇体ですよ。その後《ご》今日《こんにち》まで随分ひきましたがあのくらい美しい音《ね》が出た事がありません。そうさ何と形容していいでしょう。とうてい言いあらわせないです」
「琳琅※[#「王へん+樛のつくり」、第3水準1−88−22]鏘《りんろうきゅうそう》として鳴るじゃないか」とむずかしい事を持ち出したのは独仙君であったが、誰も取り合わなかったのは気の毒である。
「私が毎日毎日店頭を散歩しているうちにとうとうこの霊異な音《ね》を三度ききました。三度目にどうあってもこれは買わなければならないと決心しました。仮令《たとい》国のものから譴責《けんせき》されても、他県のものから軽蔑《けいべつ》されても――よし鉄拳《てっけん》制裁のために絶息《ぜっそく》しても――まかり間違って退校の処分を受けても――、こればかりは買わずにいられないと思いました」
「それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込める訳のものじゃない。羨《うらやま》しい。僕もどうかして、それほど猛烈な感じを起して見たいと年来心掛けているが、どうもいけないね。音楽会などへ行って出来るだけ熱心に聞いているが、どうもそれほどに感興が乗らない」と東風君はしきりに羨《うら》やましがっている。
「乗らない方が仕合せだよ。今でこそ平気で話すようなもののその時の苦しみはとうてい想像が出来るような種類のものではなかった。――それから先生とうとう奮発して買いました」
「ふむ、どうして」
「ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃《そろ》って泊りがけに温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だと云って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行って兼《かね》て望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」
「偽病《けびょう》をつかって学校まで休んだのかい」
「全くそうです」
「なるほど少し天才だね、こりゃ」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。
「夜具の中から首を出していると、日暮れが待遠《まちどお》でたまりません。仕方がないから頭からもぐり込んで、眼を眠《ねむ》って待って見ましたが、やはり駄目です。首を出すと烈しい秋の日が、六尺の障子《しょうじ》へ一面にあたって、かんかんするには癇癪《かんしゃく》が起りました。上の方に細長い影がかたまって、時々秋風にゆすれるのが眼につきます」
「何だい、その細長い影と云うのは」
「渋柿の皮を剥《む》いて、軒へ吊《つ》るしておいたのです」
「ふん、それから」
「仕方がないから、床《とこ》を出て障子をあけて椽側《えんがわ》へ出て、渋柿の甘干《あまぼ》しを一つ取って食いました」
「うまかったかい」と主人は小供みたような事を聞く。
「うまいですよ、あの辺の柿は。とうてい東京などじゃあの味はわかりませんね」
「柿はいいがそれから、どうしたい」と今度は東風君がきく。
「それからまたもぐって眼をふさいで、早く日が暮れればいいがと、ひそかに神仏に念じて見た。約三四時間も立ったと思う頃、もうよかろうと、首を出すとあにはからんや烈しい秋の日は依然として六尺の障子を照らしてかんかんする、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわする」
「そりゃ、聞いたよ」
「何返《なんべん》もあるんだよ。それから床を出て、障子をあけて、甘干しの柿を一つ食って、また寝床へ這入《はい》って、早く日が暮れればいいと、ひそかに神仏に祈念をこらした」
「やっぱりもとのところじゃないか」
「まあ先生そう焦《せ》かずに聞いて下さい。それから約三四時間夜具の中で辛抱《しんぼう》して、今度こそもうよかろうとぬっと首を出して見ると、烈しい秋の日は依然として六尺の障子へ一面にあたって、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわしている」
「いつまで行っても同じ事じゃないか」
「それから床を出て障子を開けて、椽側《えんがわ》へ出て甘干しの柿を一つ食って……」
「また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても柿ばかり食ってて際限がないね」
「私もじれったくてね」
「君より聞いてる方がよっぽどじれったいぜ」
「先生はどうも性急《せっかち》だから、話がしにくくって困ります」
「聞く方も少しは困るよ」と東風君も暗《あん》に不平を洩《も》らした。
「そう諸君が御困りとある以上は仕方がない。たいていにして切り上げましょう。要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、とうとう軒端《のきば》に吊《つ》るした奴をみんな食ってしまいました」
「みんな食ったら日も暮れたろう」
「ところがそう行かないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろうと首を出して見ると、相変らず烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあたって……」
「僕あ、もう御免だ。いつまで行っても果《は》てしがない」
「話す私も飽《あ》き飽きします」
「しかしそのくらい根気があればたいていの事業は成就《じょうじゅ》するよ。だまってたら、あしたの朝まで秋の日がかんかんするんだろう。全体いつ頃にヴァイオリンを買う気なんだい」とさすがの迷亭君も少し辛抱《しんぼう》し切れなくなったと見える。ただ独仙君のみは泰然として、あしたの朝まででも、あさっての朝まででも、いくら秋の日がかんかんしても動ずる気色《けしき》はさらにない。寒月君も落ちつき払ったもので
「いつ買う気だとおっしゃるが、晩になりさえすれば、すぐ買いに出掛けるつもりなのです。ただ残念な事には、いつ頭を出して見ても秋の日がかんかんしているものですから――いえその時の私《わたく》しの苦しみと云ったら、とうてい今あなた方の御じれになるどころの騒ぎじゃないです。私は最後の甘干を食っても、まだ日が暮れないのを見て、※[#「さんずい+玄」、第3水準1−86−62]然《げんぜん》として思わず泣きました。東風君、僕は実に情《なさ》けなくって泣いた
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