続きを忘れてしまって、あとが出て来ない。「坊ばちゃん、それぎりなの?」と雪江さんが聞く。
「あのね。あとでおならは御免《ごめん》だよ。ぷう、ぷうぷうって」
「ホホホホ、いやだ事、誰にそんな事を、教わったの?」
「御三《おたん》に」
「わるい御三《おさん》ね、そんな事を教えて」と妻君は苦笑をしていたが「さあ今度は雪江さんの番だ。坊やはおとなしく聞いているのですよ」と云うと、さすがの暴君も納得《なっとく》したと見えて、それぎり当分の間は沈黙した。
「八木先生の演説はこんなのよ」と雪江さんがとうとう口を切った。「昔ある辻《つじ》の真中に大きな石地蔵があったんですってね。ところがそこがあいにく馬や車が通る大変|賑《にぎ》やかな場所だもんだから邪魔になって仕様がないんでね、町内のものが大勢寄って、相談をして、どうしてこの石地蔵を隅の方へ片づけたらよかろうって考えたんですって」
「そりゃ本当にあった話なの?」
「どうですか、そんな事は何ともおっしゃらなくってよ。――でみんながいろいろ相談をしたら、その町内で一番強い男が、そりゃ訳はありません、わたしがきっと片づけて見せますって、一人でその辻へ行って、両肌《もろはだ》を抜いで汗を流して引っ張ったけれども、どうしても動かないんですって」
「よっぽど重い石地蔵なのね」
「ええ、それでその男が疲れてしまって、うちへ帰って寝てしまったから、町内のものはまた相談をしたんですね。すると今度は町内で一番利口な男が、私《わたし》に任せて御覧なさい、一番やって見ますからって、重箱のなかへ牡丹餅《ぼたもち》を一杯入れて、地蔵の前へ来て、『ここまでおいで』と云いながら牡丹餅を見せびらかしたんだって、地蔵だって食意地《くいいじ》が張ってるから牡丹餅で釣れるだろうと思ったら、少しも動かないんだって。利口な男はこれではいけないと思ってね。今度は瓢箪《ひょうたん》へお酒を入れて、その瓢箪を片手へぶら下げて、片手へ猪口《ちょこ》を持ってまた地蔵さんの前へ来て、さあ飲みたくはないかね、飲みたければここまでおいでと三時間ばかり、からかって見たがやはり動かないんですって」
「雪江さん、地蔵様は御腹《おなか》が減《へ》らないの」ととん子がきくと「牡丹餅が食べたいな」とすん子が云った。
「利口な人は二度共しくじったから、その次には贋札《にせさつ》を沢山こしらえて、さあ欲しいだろう、欲しければ取りにおいでと札を出したり引っ込ましたりしたがこれもまるで益《やく》に立たないんですって。よっぽど頑固《がんこ》な地蔵様なのよ」
「そうね。すこし叔父さんに似ているわ」
「ええまるで叔父さんよ、しまいに利口な人も愛想《あいそ》をつかしてやめてしまったんですとさ。それでそのあとからね、大きな法螺《ほら》を吹く人が出て、私《わたし》ならきっと片づけて見せますからご安心なさいとさも容易《たやす》い事のように受合ったそうです」
「その法螺を吹く人は何をしたんです」
「それが面白いのよ。最初にはね巡査の服をきて、付《つ》け髯《ひげ》をして、地蔵様の前へきて、こらこら、動かんとその方のためにならんぞ、警察で棄てておかんぞと威張って見せたんですとさ。今の世に警察の仮声《こわいろ》なんか使ったって誰も聞きゃしないわね」
「本当ね、それで地蔵様は動いたの?」
「動くもんですか、叔父さんですもの」
「でも叔父さんは警察には大変恐れ入っているのよ」
「あらそう、あんな顔をして? それじゃ、そんなに怖《こわ》い事はないわね。けれども地蔵様は動かないんですって、平気でいるんですとさ。それで法螺吹は大変|怒《おこ》って、巡査の服を脱いで、付け髯を紙屑籠《かみくずかご》へ抛《ほう》り込んで、今度は大金持ちの服装《なり》をして出て来たそうです。今の世で云うと岩崎男爵のような顔をするんですとさ。おかしいわね」
「岩崎のような顔ってどんな顔なの?」
「ただ大きな顔をするんでしょう。そうして何もしないで、また何も云わないで地蔵の周《まわ》りを、大きな巻煙草《まきたばこ》をふかしながら歩行《ある》いているんですとさ」
「それが何になるの?」
「地蔵様を煙《けむ》に捲《ま》くんです」
「まるで噺《はな》し家《か》の洒落《しゃれ》のようね。首尾よく煙《けむ》に捲《ま》いたの?」
「駄目ですわ、相手が石ですもの。ごまかしもたいていにすればいいのに、今度は殿下さまに化けて来たんだって。馬鹿ね」
「へえ、その時分にも殿下さまがあるの?」
「有るんでしょう。八木先生はそうおっしゃってよ。たしかに殿下様に化けたんだって、恐れ多い事だが化けて来たって――第一不敬じゃありませんか、法螺吹《ほらふ》きの分際《ぶんざい》で」
「殿下って、どの殿下さまなの」
「どの殿下さまですか、どの殿下さまだって不敬ですわ」
「そうね」
「殿下さまでも利《き》かないでしょう。法螺吹きもしようがないから、とても私《わたし》の手際《てぎわ》では、あの地蔵はどうする事も出来ませんと降参をしたそうです」
「いい気味ね」
「ええ、ついでに懲役《ちょうえき》にやればいいのに。――でも町内のものは大層気を揉《も》んで、また相談を開いたんですが、もう誰も引き受けるものがないんで弱ったそうです」
「それでおしまい?」
「まだあるのよ。一番しまいに車屋とゴロツキを大勢雇って、地蔵様の周《まわ》りをわいわい騒いであるいたんです。ただ地蔵様をいじめて、いたたまれないようにすればいいと云って、夜昼|交替《こうたい》で騒ぐんだって」
「御苦労様ですこと」
「それでも取り合わないんですとさ。地蔵様の方も随分強情ね」
「それから、どうして?」ととん[#「とん」に傍点]子が熱心に聞く。
「それからね、いくら毎日毎日騒いでも験《げん》が見えないので、大分《だいぶ》みんなが厭《いや》になって来たんですが、車夫やゴロツキは幾日《いくんち》でも日当《にっとう》になる事だから喜んで騒いでいましたとさ」
「雪江さん、日当ってなに?」とすん[#「すん」に傍点]子が質問をする。
「日当と云うのはね、御金の事なの」
「御金をもらって何にするの?」
「御金を貰ってね。……ホホホホいやなすん[#「すん」に傍点]子さんだ。――それで叔母さん、毎日毎晩から[#「から」に傍点]騒ぎをしていますとね。その時町内に馬鹿竹《ばかたけ》と云って、何《なんに》も知らない、誰も相手にしない馬鹿がいたんですってね。その馬鹿がこの騒ぎを見て御前方《おまえがた》は何でそんなに騒ぐんだ、何年かかっても地蔵一つ動かす事が出来ないのか、可哀想《かわいそう》なものだ、と云ったそうですって――」
「馬鹿の癖にえらいのね」
「なかなかえらい馬鹿なのよ。みんなが馬鹿竹《ばかたけ》の云う事を聞いて、物はためしだ、どうせ駄目だろうが、まあ竹にやらして見ようじゃないかとそれから竹に頼むと、竹は一も二もなく引き受けたが、そんな邪魔な騒ぎをしないでまあ静かにしろと車引やゴロツキを引き込まして飄然《ひょうぜん》と地蔵様の前へ出て来ました」
「雪江さん飄然[#「飄然」に傍点]て、馬鹿竹のお友達?」ととん子が肝心《かんじん》なところで奇問を放ったので、細君と雪江さんはどっと笑い出した。
「いいえお友達じゃないのよ」
「じゃ、なに?」
「飄然と云うのはね。――云いようがないわ」
「飄然て、云いようがないの?」
「そうじゃないのよ、飄然と云うのはね――」
「ええ」
「そら多々良三平《たたらさんぺい》さんを知ってるでしょう」
「ええ、山の芋をくれてよ」
「あの多々良さん見たようなを云うのよ」
「多々良さんは飄然なの?」
「ええ、まあそうよ。――それで馬鹿竹が地蔵様の前へ来て懐手《ふところで》をして、地蔵様、町内のものが、あなたに動いてくれと云うから動いてやんなさいと云ったら、地蔵様はたちまちそうか、そんなら早くそう云えばいいのに、とのこのこ動き出したそうです」
「妙な地蔵様ね」
「それからが演説よ」
「まだあるの?」
「ええ、それから八木先生がね、今日《こんにち》は御婦人の会でありますが、私がかような御話をわざわざ致したのは少々考があるので、こう申すと失礼かも知れませんが、婦人というものはとかく物をするのに正面から近道を通って行かないで、かえって遠方から廻りくどい手段をとる弊《へい》がある。もっともこれは御婦人に限った事でない。明治の代《よ》は男子といえども、文明の弊を受けて多少女性的になっているから、よくいらざる手数《てすう》と労力を費《つい》やして、これが本筋である、紳士のやるべき方針であると誤解しているものが多いようだが、これ等は開化の業に束縛された畸形児《きけいじ》である。別に論ずるに及ばん。ただ御婦人に在《あ》ってはなるべくただいま申した昔話を御記憶になって、いざと云う場合にはどうか馬鹿竹のような正直な了見で物事を処理していただきたい。あなた方が馬鹿竹になれば夫婦の間、嫁姑《よめしゅうと》の間に起る忌《いま》わしき葛藤《かっとう》の三分一《さんぶいち》はたしかに減ぜられるに相違ない。人間は魂胆《こんたん》があればあるほど、その魂胆が祟《たた》って不幸の源《みなもと》をなすので、多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆があり過ぎるからである。どうか馬鹿竹になって下さい、と云う演説なの」
「へえ、それで雪江さんは馬鹿竹になる気なの」
「やだわ、馬鹿竹だなんて。そんなものになりたくはないわ。金田の富子さんなんぞは失敬だって大変|怒《おこ》ってよ」
「金田の富子さんて、あの向横町《むこうよこちょう》の?」
「ええ、あのハイカラさんよ」
「あの人も雪江さんの学校へ行くの?」
「いいえ、ただ婦人会だから傍聴に来たの。本当にハイカラね。どうも驚ろいちまうわ」
「でも大変いい器量だって云うじゃありませんか」
「並ですわ。御自慢ほどじゃありませんよ。あんなに御化粧をすればたいていの人はよく見えるわ」
「それじゃ雪江さんなんぞはそのかたのように御化粧をすれば金田さんの倍くらい美しくなるでしょう」
「あらいやだ。よくってよ。知らないわ。だけど、あの方《かた》は全くつくり過ぎるのね。なんぼ御金があったって――」
「つくり過ぎても御金のある方がいいじゃありませんか」
「それもそうだけれども――あの方《かた》こそ、少し馬鹿竹になった方がいいでしょう。無暗《むやみ》に威張るんですもの。この間もなんとか云う詩人が新体詩集を捧げたって、みんなに吹聴《ふいちょう》しているんですもの」
「東風さんでしょう」
「あら、あの方が捧げたの、よっぽど物数奇《ものずき》ね」
「でも東風さんは大変真面目なんですよ。自分じゃ、あんな事をするのが当前《あたりまえ》だとまで思ってるんですもの」
「そんな人があるから、いけないんですよ。――それからまだ面白い事があるの。此間《こないだ》だれか、あの方の所《とこ》へ艶書《えんしょ》を送ったものがあるんだって」
「おや、いやらしい。誰なの、そんな事をしたのは」
「誰だかわからないんだって」
「名前はないの?」
「名前はちゃんと書いてあるんだけれども聞いた事もない人だって、そうしてそれが長い長い一間ばかりもある手紙でね。いろいろな妙な事がかいてあるんですとさ。私《わたし》があなたを恋《おも》っているのは、ちょうど宗教家が神にあこがれているようなものだの、あなたのためならば祭壇に供える小羊となって屠《ほふ》られるのが無上の名誉であるの、心臓の形《かた》ちが三角で、三角の中心にキューピッドの矢が立って、吹き矢なら大当りであるの……」
「そりゃ真面目なの?」
「真面目なんですとさ。現にわたしの御友達のうちでその手紙を見たものが三人あるんですもの」
「いやな人ね、そんなものを見せびらかして。あの方は寒月さんのとこへ御嫁に行くつもりなんだから、そんな事が世間へ知れちゃ困るでしょうにね」
「困るどころですか大得意よ。こんだ寒月さんが来たら、知らして上げたらいいでしょう。寒月さんはまるで御存じないんでしょう」
「どうですか、あの
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