くあん》をかじっていたすん子が、急に盛り立ての味噌汁の中から薩摩芋《さつまいも》のくずれたのをしゃくい出して、勢よく口の内へ抛《ほう》り込んだ。諸君も御承知であろうが、汁にした薩摩芋の熱したのほど口中《こうちゅう》にこたえる者はない。大人《おとな》ですら注意しないと火傷《やけど》をしたような心持ちがする。ましてすん子のごとき、薩摩芋に経験の乏《とぼ》しい者は無論|狼狽《ろうばい》する訳である。すん子はワッと云いながら口中《こうちゅう》の芋を食卓の上へ吐き出した。その二三|片《ぺん》がどう云う拍子か、坊ばの前まですべって来て、ちょうどいい加減な距離でとまる。坊ばは固《もと》より薩摩芋が大好きである。大好きな薩摩芋が眼の前へ飛んで来たのだから、早速箸を抛《ほう》り出して、手攫《てづか》みにしてむしゃむしゃ食ってしまった。
先刻《さっき》からこの体《てい》たらくを目撃していた主人は、一言《いちごん》も云わずに、専心自分の飯を食い、自分の汁を飲んで、この時はすでに楊枝《ようじ》を使っている最中であった。主人は娘の教育に関して絶体的放任主義を執《と》るつもりと見える。今に三人が海老茶式部《えびちゃしきぶ》か鼠式部《ねずみしきぶ》かになって、三人とも申し合せたように情夫《じょうふ》をこしらえて出奔《しゅっぽん》しても、やはり自分の飯を食って、自分の汁を飲んで澄まして見ているだろう。働きのない事だ。しかし今の世の働きのあると云う人を拝見すると、嘘をついて人を釣る事と、先へ廻って馬の眼玉を抜く事と、虚勢を張って人をおどかす事と、鎌《かま》をかけて人を陥《おとしい》れる事よりほかに何も知らないようだ。中学などの少年輩までが見様見真似《みようみまね》に、こうしなくては幅が利《き》かないと心得違いをして、本来なら赤面してしかるべきのを得々《とくとく》と履行《りこう》して未来の紳士だと思っている。これは働き手と云うのではない。ごろつき手と云うのである。吾輩も日本の猫だから多少の愛国心はある。こんな働き手を見るたびに撲《なぐ》ってやりたくなる。こんなものが一人でも殖《ふ》えれば国家はそれだけ衰える訳である。こんな生徒のいる学校は、学校の恥辱であって、こんな人民のいる国家は国家の恥辱である。恥辱であるにも関らず、ごろごろ世間にごろついているのは心得がたいと思う。日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情《なさけ》ない事だ。こんなごろつき手に比べると主人などは遥《はる》かに上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才《ちょこざい》でないところが上等なのである。
かくのごとく働きのない食い方をもって、無事に朝食《あさめし》を済ましたる主人は、やがて洋服を着て、車へ乗って、日本堤分署へ出頭に及んだ。格子《こうし》をあけた時、車夫に日本堤という所を知ってるかと聞いたら、車夫はへへへと笑った。あの遊廓のある吉原の近辺の日本堤だぜと念を押したのは少々|滑稽《こっけい》であった。
主人が珍らしく車で玄関から出掛けたあとで、妻君は例のごとく食事を済ませて「さあ学校へおいで。遅くなりますよ」と催促すると、小供は平気なもので「あら、でも今日は御休みよ」と支度《したく》をする景色《けしき》がない。「御休みなもんですか、早くなさい」と叱《しか》るように言って聞かせると「それでも昨日《きのう》、先生が御休だって、おっしゃってよ」と姉はなかなか動じない。妻君もここに至って多少変に思ったものか、戸棚から暦《こよみ》を出して繰り返して見ると、赤い字でちゃんと御祭日と出ている。主人は祭日とも知らずに学校へ欠勤届を出したのだろう。細君も知らずに郵便箱へ抛《ほう》り込んだのだろう。ただし迷亭に至っては実際知らなかったのか、知って知らん顔をしたのか、そこは少々疑問である。この発明におやと驚ろいた妻君はそれじゃ、みんなでおとなしく御遊びなさいと平生《いつも》の通り針箱を出して仕事に取りかかる。
その後《ご》三十分間は家内平穏、別段吾輩の材料になるような事件も起らなかったが、突然妙な人が御客に来た。十七八の女学生である。踵《かかと》のまがった靴を履《は》いて、紫色の袴《はかま》を引きずって、髪を算盤珠《そろばんだま》のようにふくらまして勝手口から案内も乞《こ》わずに上《あが》って来た。これは主人の姪《めい》である。学校の生徒だそうだが、折々日曜にやって来て、よく叔父さんと喧嘩をして帰って行く雪江《ゆきえ》とか云う奇麗な名のお嬢さんである。もっとも顔は名前ほどでもない、ちょっと表へ出て一二町あるけば必ず逢える人相である。
「叔母さん今日は」と茶の間へつかつか這入《はい》って来て、針箱の横へ尻をおろした。
「おや、よく早くから……」
「今日は大祭日ですから、朝のうちにちょっと上がろうと思って、八時半頃から家《うち》を出て急いで来たの」
「そう、何か用があるの?」
「いいえ、ただあんまり御無沙汰をしたから、ちょっと上がったの」
「ちょっとでなくっていいから、緩《ゆっ》くり遊んでいらっしゃい。今に叔父さんが帰って来ますから」
「叔父さんは、もう、どこへかいらしったの。珍らしいのね」
「ええ今日はね、妙な所へ行ったのよ。……警察へ行ったの、妙でしょう」
「あら、何で?」
「この春|這入《はい》った泥棒がつらまったんだって」
「それで引き合に出されるの? いい迷惑ね」
「なあに品物が戻るのよ。取られたものが出たから取りに来いって、昨日《きのう》巡査がわざわざ来たもんですから」
「おや、そう、それでなくっちゃ、こんなに早く叔父さんが出掛ける事はないわね。いつもなら今時分はまだ寝ていらっしゃるんだわ」
「叔父さんほど、寝坊はないんですから……そうして起こすとぷんぷん怒《おこ》るのよ。今朝なんかも七時までに是非おこせと云うから、起こしたんでしょう。すると夜具の中へ潜《もぐ》って返事もしないんですもの。こっちは心配だから二度目にまたおこすと、夜着《よぎ》の袖《そで》から何か云うのよ。本当にあきれ返ってしまうの」
「なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう」
「何ですか」
「本当にむやみに怒る方《かた》ね。あれでよく学校が勤まるのね」
「なに学校じゃおとなしいんですって」
「じゃなお悪るいわ。まるで蒟蒻閻魔《こんにゃくえんま》ね」
「なぜ?」
「なぜでも蒟蒻閻魔なの。だって蒟蒻閻魔のようじゃありませんか」
「ただ怒るばかりじゃないのよ。人が右と云えば左、左と云えば右で、何でも人の言う通りにした事がない、――そりゃ強情ですよ」
「天探女《あまのじゃく》でしょう。叔父さんはあれが道楽なのよ。だから何かさせようと思ったら、うら[#「うら」に傍点]を云うと、こっちの思い通りになるのよ。こないだ蝙蝠傘《こうもり》を買ってもらう時にも、いらない、いらないって、わざと云ったら、いらない事があるものかって、すぐ買って下すったの」
「ホホホホ旨《うま》いのね。わたしもこれからそうしよう」
「そうなさいよ。それでなくっちゃ損だわ」
「こないだ保険会社の人が来て、是非|御這入《おはい》んなさいって、勧めているんでしょう、――いろいろ訳《わけ》を言って、こう云う利益があるの、ああ云う利益があるのって、何でも一時間も話をしたんですが、どうしても這入らないの。うちだって貯蓄はなし、こうして小供は三人もあるし、せめて保険へでも這入ってくれるとよっぽど心丈夫なんですけれども、そんな事は少しも構わないんですもの」
「そうね、もしもの事があると不安心だわね」と十七八の娘に似合しからん世帯染《しょたいじ》みたことを云う。
「その談判を蔭で聞いていると、本当に面白いのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから会社も存在しているのだろう。しかし死なない以上は保険に這入《はい》る必要はないじゃないかって強情を張っているんです」
「叔父さんが?」
「ええ、すると会社の男が、それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命と云うものは丈夫なようで脆《もろ》いもので、知らないうちに、いつ危険が逼《せま》っているか分りませんと云うとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心をしているって、まあ無法な事を云うんですよ」
「決心したって、死ぬわねえ。わたしなんか是非|及第《きゅうだい》するつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ」
「保険社員もそう云うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心で長《な》が生《い》きが出来るものなら、誰も死ぬものはございませんって」
「保険会社の方が至当《しとう》ですわ」
「至当でしょう。それがわからないの。いえ決して死なない。誓って死なないって威張るの」
「妙ね」
「妙ですとも、大妙《おおみょう》ですわ。保険の掛金を出すくらいなら銀行へ貯金する方が遥《はる》かにましだってすまし切っているんですよ」
「貯金があるの?」
「あるもんですか。自分が死んだあとなんか、ちっとも構う考なんかないんですよ」
「本当に心配ね。なぜ、あんななんでしょう、ここへいらっしゃる方《かた》だって、叔父さんのようなのは一人もいないわね」
「いるものですか。無類ですよ」
「ちっと鈴木さんにでも頼んで意見でもして貰うといいんですよ。ああ云う穏《おだ》やかな人だとよっぽど楽《らく》ですがねえ」
「ところが鈴木さんは、うちじゃ評判がわるいのよ」
「みんな逆《さか》なのね。それじゃ、あの方《かた》がいいでしょう――ほらあの落ちついてる――」
「八木さん?」
「ええ」
「八木さんには大分《だいぶ》閉口しているんですがね。昨日《きのう》迷亭さんが来て悪口をいったものだから、思ったほど利《き》かないかも知れない」
「だっていいじゃありませんか。あんな風に鷹揚《おうよう》に落ちついていれば、――こないだ学校で演説をなすったわ」
「八木さんが?」
「ええ」
「八木さんは雪江さんの学校の先生なの」
「いいえ、先生じゃないけども、淑徳《しゅくとく》婦人会《ふじんかい》のときに招待して、演説をして頂いたの」
「面白かって?」
「そうね、そんなに面白くもなかったわ。だけども、あの先生が、あんな長い顔なんでしょう。そうして天神様のような髯《ひげ》を生やしているもんだから、みんな感心して聞いていてよ」
「御話しって、どんな御話なの?」と妻君が聞きかけていると椽側《えんがわ》の方から、雪江さんの話し声をききつけて、三人の子供がどたばた茶の間へ乱入して来た。今までは竹垣の外の空地《あきち》へ出て遊んでいたものであろう。
「あら雪江さんが来た」と二人の姉さんは嬉しそうに大きな声を出す。妻君は「そんなに騒がないで、みんな静かにして御坐わりなさい。雪江さんが今面白い話をなさるところだから」と仕事を隅へ片付ける。
「雪江さん何の御話し、わたし御話しが大好き」と云ったのはとん子で「やっぱりかちかち[#「かちかち」に傍点]山の御話し?」と聞いたのはすん子である。「坊ばも御はなち」と云い出した三女は姉と姉の間から膝を前の方に出す。ただしこれは御話を承《うけたま》わると云うのではない、坊ばもまた御話を仕《つかまつ》ると云う意味である。「あら、また坊ばちゃんの話だ」と姉さんが笑うと、妻君は「坊ばはあとでなさい。雪江さんの御話がすんでから」と賺《す》かして見る。坊ばはなかなか聞きそうにない。「いやーよ、ばぶ」と大きな声を出す。「おお、よしよし坊ばちゃんからなさい。何と云うの?」と雪江さんは謙遜《けんそん》した。
「あのね。坊たん、坊たん、どこ行くのって」
「面白いのね。それから?」
「わたちは田圃《たんぼ》へ稲刈いに」
「そう、よく知ってる事」
「御前がくうと邪魔《だま》になる」
「あら、くう[#「くう」に傍点]とじゃないわ、くる[#「くる」に傍点]とだわね」ととん子が口を出す。坊ばは相変らず「ばぶ」と一喝《いっかつ》して直ちに姉を辟易《へきえき》させる。しかし中途で口を出されたものだから、
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