いてあるか読みたくなった。今までは車屋のかみさんでも捕《つらま》えて、鼻づらを松の木へこすりつけてやろうくらいにまで怒《おこ》っていた主人が、突然この反古紙《ほごがみ》を読んで見たくなるのは不思議のようであるが、こう云う陽性の癇癪持ちには珍らしくない事だ。小供が泣くときに最中《もなか》の一つもあてがえばすぐ笑うと一般である。主人が昔《むか》し去る所の御寺に下宿していた時、襖《ふすま》一《ひ》と重《え》を隔てて尼が五六人いた。尼などと云うものは元来意地のわるい女のうちでもっとも意地のわるいものであるが、この尼が主人の性質を見抜いたものと見えて自炊の鍋《なべ》をたたきながら、今泣いた烏がもう笑った、今泣いた烏がもう笑ったと拍子を取って歌ったそうだ、主人が尼が大嫌になったのはこの時からだと云うが、尼は嫌《きらい》にせよ全くそれに違ない。主人は泣いたり、笑ったり、嬉しがったり、悲しがったり人一倍もする代りにいずれも長く続いた事がない。よく云えば執着がなくて、心機《しんき》がむやみに転ずるのだろうが、これを俗語に翻訳してやさしく云えば奥行のない、薄《うす》っ片《ぺら》の、鼻《はな》っ張《ぱり》だけ強いだだっ子である。すでにだだっ子である以上は、喧嘩をする勢で、むっくと刎《は》ね起きた主人が急に気をかえて袋戸《ふくろど》の腸を読みにかかるのももっともと云わねばなるまい。第一に眼にとまったのが伊藤博文の逆《さ》か立《だ》ちである。上を見ると明治十一年九月廿八日とある。韓国統監《かんこくとうかん》もこの時代から御布令《おふれ》の尻尾《しっぽ》を追っ懸けてあるいていたと見える。大将この時分は何をしていたんだろうと、読めそうにないところを無理によむと大蔵卿《おおュらきょう》とある。なるほどえらいものだ、いくら逆か立ちしても大蔵卿である。少し左の方を見ると今度は大蔵卿横になって昼寝をしている。もっともだ。逆か立ちではそう長く続く気遣《きづかい》はない。下の方に大きな木板《もくばん》で汝は[#「汝は」に傍点]と二字だけ見える、あとが見たいがあいにく露出しておらん。次の行には早く[#「早く」に傍点]の二字だけ出ている。こいつも読みたいがそれぎれで手掛りがない。もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に行《ゆ》かないものだ。願《ねがわ》くばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構《らしききょこう》をもって良民を罪に陥《おとしい》れる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときてはこれまた立派な気狂《きちがい》である。次に眼を転じて真中を見ると真中には大分県《おおいたけん》が宙返りをしている。伊藤博文でさえ逆か立ちをするくらいだから、大分県が宙返りをするのは当然である。主人はここまで読んで来て、双方へ握《にぎ》り拳《こぶし》をこしらえて、これを高く天井に向けて突きあげた。あくびの用意である。
 このあくびがまた鯨《くじら》の遠吠《とおぼえ》のようにすこぶる変調を極《きわ》めた者であったが、それが一段落を告げると、主人はのそのそと着物をきかえて顔を洗いに風呂場へ出掛けて行った。待ちかねた細君はいきなり布団《ふとん》をまくって夜着《よぎ》を畳んで、例の通り掃除をはじめる。掃除が例の通りであるごとく、主人の顔の洗い方も十年一日のごとく例の通りである。先日紹介をしたごとく依然としてがーがー、げーげーを持続している。やがて頭を分け終って、西洋|手拭《てぬぐい》を肩へかけて、茶の間へ出御《しゅつぎょ》になると、超然として長火鉢の横に座を占めた。長火鉢と云うと欅《けやき》の如輪木《じょりんもく》か、銅《あか》の総落《そうおと》しで、洗髪《あらいがみ》の姉御が立膝で、長煙管《ながぎせる》を黒柿《くろがき》の縁《ふち》へ叩きつける様を想見する諸君もないとも限らないが、わが苦沙弥《くしゃみ》先生の長火鉢に至っては決して、そんな意気なものではない、何で造ったものか素人《しろうと》には見当《けんとう》のつかんくらい古雅なものである。長火鉢は拭き込んでてらてら光るところが身上《しんしょう》なのだが、この代物《しろもの》は欅か桜か桐《きり》か元来不明瞭な上に、ほとんど布巾《ふきん》をかけた事がないのだから陰気で引き立たざる事|夥《おびただ》しい。こんなものをどこから買って来たかと云うと、決して買った覚《おぼえ》はない。そんなら貰ったかと聞くと、誰もくれた人はないそうだ。しからば盗んだのかと糺《ただ》して見ると、何だかその辺が曖昧《あいまい》である。昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、当分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢を何の気もなく、つい持って来てしまったのだそうだ。少々たちが悪いようだ。考えるとたちが悪いようだがこんな事は世間に往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委托した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を笠《かさ》に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らの喙《くちばし》を容《い》るる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満してい驤ネ上は長火鉢事件をもって主人に泥棒根性があると断定する訳には行かぬ。もし主人に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。
 長火鉢の傍《そば》に陣取って、食卓を前に控《ひか》えたる主人の三面には、先刻《さっき》雑巾《ぞうきん》で顔を洗った坊ば[#「坊ば」に傍点]と御茶《おちゃ》の味噌[#「味噌」に傍点]の学校へ行くとん[#「とん」に傍点]子と、お白粉罎《しろいびん》に指を突き込んだすん[#「すん」に傍点]子が、すでに勢揃《せいぞろい》をして朝飯を食っている。主人は一応この三女子の顔を公平に見渡した。とん子の顔は南蛮鉄《なんばんてつ》の刀の鍔《つば》のような輪廓《りんかく》を有している。すん子も妹だけに多少姉の面影《おもかげ》を存して琉球塗《りゅうきゅうぬり》の朱盆《しゅぼん》くらいな資格はある。ただ坊ば[#「坊ば」に傍点]に至っては独《ひと》り異彩を放って、面長《おもなが》に出来上っている。但《ただ》し竪《たて》に長いのなら世間にその例もすくなくないが、この子のは横に長いのである。いかに流行が変化し易《やす》くったって、横に長い顔がはやる事はなかろう。主人は自分の子ながらも、つくづく考える事がある。これでも生長しなければならぬ。生長するどころではない、その生長の速《すみや》かなる事は禅寺《ぜんでら》の筍《たけのこ》が若竹に変化する勢で大きくなる。主人はまた大きくなったなと思うたんびに、後《うし》ろから追手《おって》にせまられるような気がしてひやひやする。いかに空漠《くうばく》なる主人でもこの三令嬢が女であるくらいは心得ている。女である以上はどうにか片付けなくてはならんくらいも承知している。承知しているだけで片付ける手腕のない事も自覚している。そこで自分の子ながらも少しく持て余しているところである。持て余すくらいなら製造しなければいいのだが、そこが人間である。人間の定義を云うとほかに何にもない。ただ入《い》らざる事を捏造《ねつぞう》して自《みずか》ら苦しんでいる者だと云えば、それで充分だ。
 さすがに子供はえらい。これほどおやじが処置に窮しているとは夢にも知らず、楽しそうにご飯をたべる。ところが始末におえないのは坊ばである。坊ばは当年とって三歳であるから、細君が気を利《き》かして、食事のときには、三歳然たる小形の箸《はし》と茶碗をあてがうのだが、坊ばは決して承知しない。必ず姉の茶碗を奪い、姉の箸を引ったくって、持ちあつかい悪《にく》い奴を無理に持ちあつかっている。世の中を見渡すと無能無才の小人ほど、いやにのさばり出て柄《がら》にもない官職に登りたがるものだが、あの性質は全くこの坊ば時代から萌芽《ほうが》しているのである。その因《よ》って来《きた》るところはかくのごとく深いのだから、決して教育や薫陶《くんとう》で癒《なお》せる者ではないと、早くあきらめてしまうのがいい。
 坊ばは隣りから分捕《ぶんど》った偉大なる茶碗と、長大なる箸を専有して、しきりに暴威を擅《ほしいまま》にしている。使いこなせない者をむやみに使おうとするのだから、勢《いきおい》暴威を逞《たくま》しくせざるを得ない。坊ばはまず箸の根元を二本いっしょに握ったままうんと茶碗の底へ突込んだ。茶碗の中は飯が八分通り盛り込まれて、その上に味噌汁が一面に漲《みなぎ》っている。箸の力が茶碗へ伝わるやいなや、今までどうか、こうか、平均を保っていたのが、急に襲撃を受けたので三十度ばかり傾いた。同時に味噌汁は容赦なくだらだらと胸のあたりへこぼれだす。坊ばはそのくらいな事で辟易《へきえき》する訳がない。坊ばは暴君である。今度は突き込んだ箸を、うんと力一杯茶碗の底から刎《は》ね上げた。同時に小さな口を縁《ふち》まで持って行って、刎《は》ね上げられた米粒を這入《はい》るだけ口の中へ受納した。打ち洩《も》らされた米粒は黄色な汁と相和して鼻のあたまと頬《ほ》っぺたと顋《あご》とへ、やっと掛声をして飛びついた。飛びつき損じて畳の上へこぼれたものは打算《ださん》の限りでない。随分無分別な飯の食い方である。吾輩は謹《つつし》んで有名なる金田君及び天下の勢力家に忠告する。公等《こうら》の他をあつかう事、坊ばの茶碗と箸をあつかうがごとくんば、公等《こうら》の口へ飛び込む米粒は極めて僅少《きんしょう》のものである。必然の勢をもって飛び込むにあらず、戸迷《とまどい》をして飛び込むのである。どうか御再考を煩《わずら》わしたい。世故《せこ》にたけた敏腕家にも似合しからぬ事だ。
 姉のとん子は、自分の箸と茶碗を坊ばに掠奪《りゃくだつ》されて、不相応に小さな奴をもってさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、一杯にもった積りでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。したがって頻繁《ひんぱん》に御はちの方へ手が出る。もう四膳かえて、今度は五杯目である。とん子は御はちの蓋《ふた》をあけて大きなしゃもじ[#「しゃもじ」に傍点]を取り上げて、しばらく眺《なが》めていた。これは食おうか、よそうかと迷っていたものらしいが、ついに決心したものと見えて、焦《こ》げのなさそうなところを見計って一掬《ひとしゃく》いしゃもじの上へ乗せたまでは無難《ぶなん》であったが、それを裏返して、ぐいと茶碗の上をこいたら、茶碗に入《はい》りきらん飯は塊《かた》まったまま畳の上へ転《ころ》がり出した。とん子は驚ろく景色《けしき》もなく、こぼれた飯を鄭寧《ていねい》に拾い始めた。拾って何にするかと思ったら、みんな御はちの中へ入れてしまった。少しきたないようだ。
 坊ばが一大活躍を試みて箸を刎《は》ね上げた時は、ちょうどとん子が飯をよそい了《おわ》った時である。さすがに姉は姉だけで、坊ばの顔のいかにも乱雑なのを見かねて「あら坊ばちゃん、大変よ、顔が御《ご》ぜん粒だらけよ」と云いながら、早速《さっそく》坊ばの顔の掃除にとりかかる。第一に鼻のあたまに寄寓《きぐう》していたのを取払う。取払って捨てると思のほか、すぐ自分の口のなかへ入れてしまったのには驚ろいた。それから頬《ほ》っぺたにかかる。ここには大分《だいぶ》群《ぐん》をなして数《かず》にしたら、両方を合せて約二十粒もあったろう。姉は丹念に一粒ずつ取っては食い、取っては食い、とうとう妹の顔中にある奴を一つ残らず食ってしまった。この時ただ今まではおとなしく沢庵《た
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