方は学校へ行って球《たま》ばかり磨いていらっしゃるから、大方知らないでしょう」
「寒月さんは本当にあの方を御貰《おもらい》になる気なんでしょうかね。御気の毒だわね」
「なぜ? 御金があって、いざって時に力になって、いいじゃありませんか」
「叔母さんは、じきに金、金って品《ひん》がわるいのね。金より愛の方が大事じゃありませんか。愛がなければ夫婦の関係は成立しやしないわ」
「そう、それじゃ雪江さんは、どんなところへ御嫁に行くの?」
「そんな事知るもんですか、別に何もないんですもの」
雪江さんと叔母さんは結婚事件について何か弁論を逞《たくま》しくしていると、さっきから、分らないなりに謹聴しているとん[#「とん」に傍点]子が突然口を開いて「わたしも御嫁に行きたいな」と云いだした。この無鉄砲な希望には、さすが青春の気に満ちて、大《おおい》に同情を寄すべき雪江さんもちょっと毒気を抜かれた体《てい》であったが、細君の方は比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑ながら聞いて見た。
「わたしねえ、本当はね、招魂社《しょうこんしゃ》へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女のすん子が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。
「御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやなら好《い》いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」
「坊ばも行くの」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔を揃《そろ》えて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。
ところへ車の音ががらがらと門前に留ったと思ったら、たちまち威勢のいい御帰りと云う声がした。主人は日本堤分署から戻ったと見える。車夫が差出す大きな風呂敷包を下女に受け取らして、主人は悠然《ゆうぜん》と茶の間へ這入《はい》って来る。「やあ、来たね」と雪江さんに挨拶しながら、例の有名なる長火鉢の傍《そば》へ、ぽかりと手に携《たずさ》えた徳利様《とっくりよう》のものを抛《ほう》り出した。徳利様と云うのは純然たる徳利では無論ない、と云って花活《はない》けとも思われない、ただ一種異様の陶器であるから、やむを得ずしばらくかように申したのである。
「妙な徳利ね、そんなものを警察から貰っていらしったの」と雪江さんが、倒れた奴を起しながら叔父さんに聞いて見る。叔父さんは、雪江さんの顔を見ながら、「どうだ、いい恰好《かっこう》だろう」と自慢する。
「いい恰好なの? それが? あんまりよかあないわ? 油壺《あぶらつぼ》なんか何で持っていらっしったの?」
「油壺なものか。そんな趣味のない事を云うから困る」
「じゃ、なあに?」
「花活《はないけ》さ」
「花活にしちゃ、口が小《ち》いさ過ぎて、いやに胴が張ってるわ」
「そこが面白いんだ。御前も無風流だな。まるで叔母さんと択《えら》ぶところなしだ。困ったものだな」と独《ひと》りで油壺を取り上げて、障子《しょうじ》の方へ向けて眺《なが》めている。
「どうせ無風流ですわ。油壺を警察から貰ってくるような真似は出来ないわ。ねえ叔母さん」叔母さんはそれどころではない、風呂敷包を解《と》いて皿眼《さらまなこ》になって、盗難品を検《しら》べている。「おや驚ろいた。泥棒も進歩したのね。みんな、解いて洗い張をしてあるわ。ねえちょいと、あなた」
「誰が警察から油壺を貰ってくるものか。待ってるのが退屈だから、あすこいらを散歩しているうちに堀り出して来たんだ。御前なんぞには分るまいがそれでも珍品だよ」
「珍品過ぎるわ。一体叔父さんはどこを散歩したの」
「どこって日本堤《にほんづつみ》界隈《かいわい》さ。吉原へも這入《はい》って見た。なかなか盛《さかん》な所だ。あの鉄の門を観《み》た事があるかい。ないだろう」
「だれが見るもんですか。吉原なんて賤業婦《せんぎょうふ》のいる所へ行く因縁《いんねん》がありませんわ。叔父さんは教師の身で、よくまあ、あんな所へ行かれたものねえ。本当に驚ろいてしまうわ。ねえ叔母さん、叔母さん」
「ええ、そうね。どうも品数《しなかず》が足りないようだ事。これでみんな戻ったんでしょうか」
「戻らんのは山の芋ばかりさ。元来九時に出頭しろと云いながら十一時まで待たせる法があるものか、これだから日本の警察はいかん」
「日本の警察がいけないって、吉原を散歩しちゃなおいけないわ。そんな事が知れると免職になってよ。ねえ叔母さん」
「ええ、なるでしょう。あなた、私の帯の片側《かたかわ》がないんです。何だか足りないと思ったら」
「帯の片側くらいあきらめるさ。こっちは三時間も待たされて、大切の時間を半日|潰《つぶ》してしまった」と日本服に着代えて平気に火鉢へもたれて油壺を眺《なが》めている。細君も仕方がないと諦《あきら》めて、戻った品をそのまま戸棚へしまい込《こ》んで座に帰る。
「叔母さん、この油壺が珍品ですとさ。きたないじゃありませんか」
「それを吉原で買っていらしったの? まあ」
「何がまあ[#「まあ」に傍点]だ。分りもしない癖に」
「それでもそんな壺なら吉原へ行かなくっても、どこにだってあるじゃありませんか」
「ところがないんだよ。滅多《めった》に有る品ではないんだよ」
「叔父さんは随分|石地蔵《いしじぞう》ね」
「また小供の癖に生意気を云う。どうもこの頃の女学生は口が悪るくっていかん。ちと女大学でも読むがいい」
「叔父さんは保険が嫌《きらい》でしょう。女学生と保険とどっちが嫌なの?」
「保険は嫌ではない。あれは必要なものだ。未来の考のあるものは、誰でも這入《はい》る。女学生は無用の長物だ」
「無用の長物でもいい事よ。保険へ這入ってもいない癖に」
「来月から這入るつもりだ」
「きっと?」
「きっとだとも」
「およしなさいよ、保険なんか。それよりかその懸金《かけきん》で何か買った方がいいわ。ねえ、叔母さん」叔母さんはにやにや笑っている。主人は真面目になって
「お前などは百も二百も生きる気だから、そんな呑気《のんき》な事を云うのだが、もう少し理性が発達して見ろ、保険の必要を感ずるに至るのは当前《あたりまえ》だ。ぜひ来月から這入るんだ」
「そう、それじゃ仕方がない。だけどこないだのように蝙蝠傘《こうもり》を買って下さる御金があるなら、保険に這入る方がましかも知れないわ。ひとがいりません、いりませんと云うのを無理に買って下さるんですもの」
「そんなにいらなかったのか?」
「ええ、蝙蝠傘なんか欲しかないわ」
「そんなら還《かえ》すがいい。ちょうど[#「ちょうど」に傍点]とん子が欲しがってるから、あれをこっちへ廻してやろう。今日持って来たか」
「あら、そりゃ、あんまりだわ。だって苛《ひど》いじゃありませんか、せっかく買って下すっておきながら、還せなんて」
「いらないと云うから、還せと云うのさ。ちっとも苛くはない」
「いらない事はいらないんですけれども、苛いわ」
「分らん事を言う奴だな。いらないと云うから還せと云うのに苛い事があるものか」
「だって」
「だって、どうしたんだ」
「だって苛いわ」
「愚《ぐ》だな、同じ事ばかり繰り返している」
「叔父さんだって同じ事ばかり繰り返しているじゃありませんか」
「御前が繰り返すから仕方がないさ。現にいらないと云ったじゃないか」
「そりゃ云いましたわ。いらない事はいらないんですけれども、還すのは厭《いや》ですもの」
「驚ろいたな。没分暁《わからずや》で強情なんだから仕方がない。御前の学校じゃ論理学を教えないのか」
「よくってよ、どうせ無教育なんですから、何とでもおっしゃい。人のものを還せだなんて、他人だってそんな不人情な事は云やしない。ちっと馬鹿竹《ばかたけ》の真似でもなさい」
「何の真似をしろ?」
「ちと正直に淡泊《たんぱく》になさいと云うんです」
「お前は愚物の癖にやに強情だよ。それだから落第するんだ」
「落第したって叔父さんに学資は出して貰やしないわ」
雪江さんは言《げん》ここに至って感に堪《た》えざるもののごとく、潸然《さんぜん》として一掬《いっきく》の涙《なんだ》を紫の袴《はかま》の上に落した。主人は茫乎《ぼうこ》として、その涙がいかなる心理作用に起因するかを研究するもののごとく、袴の上と、俯《う》つ向いた雪江さんの顔を見つめていた。ところへ御三《おさん》が台所から赤い手を敷居越に揃《そろ》えて「お客さまがいらっしゃいました」と云う。「誰が来たんだ」と主人が聞くと「学校の生徒さんでございます」と御三は雪江さんの泣顔を横目に睨《にら》めながら答えた。主人は客間へ出て行く。吾輩も種取り兼《けん》人間研究のため、主人に尾《び》して忍びやかに椽《えん》へ廻った。人間を研究するには何か波瀾がある時を択《えら》ばないと一向《いっこう》結果が出て来ない。平生は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張合のないくらい平凡である。しかしいざとなるとこの平凡が急に霊妙なる神秘的作用のためにむくむくと持ち上がって奇なもの、変なもの、妙なもの、異《い》なもの、一と口に云えば吾輩猫共から見てすこぶる後学になるような事件が至るところに横風《おうふう》にあらわれてくる。雪江さんの紅涙《こうるい》のごときはまさしくその現象の一つである。かくのごとく不可思議、不可測《ふかそく》の心を有している雪江さんも、細君と話をしているうちはさほどとも思わなかったが、主人が帰ってきて油壺を抛《ほう》り出すやいなや、たちまち死竜《しりゅう》に蒸汽喞筒《じょうきポンプ》を注ぎかけたるごとく、勃然《ぼつぜん》としてその深奥《しんおう》にして窺知《きち》すべからざる、巧妙なる、美妙なる、奇妙なる、霊妙なる、麗質を、惜気もなく発揚し了《おわ》った。しかしてその麗質は天下の女性《にょしょう》に共通なる麗質である。ただ惜しい事には容易にあらわれて来ない。否《いや》あらわれる事は二六時中間断なくあらわれているが、かくのごとく顕著に灼然炳乎《しゃくぜんへいこ》として遠慮なくはあらわれて来ない。幸にして主人のように吾輩の毛をややともすると逆さに撫《な》でたがる旋毛曲《つむじまが》りの奇特家《きどくか》がおったから、かかる狂言も拝見が出来たのであろう。主人のあとさえついてあるけば、どこへ行っても舞台の役者は吾知らず動くに相違ない。面白い男を旦那様に戴《いただ》いて、短かい猫の命のうちにも、大分《だいぶ》多くの経験が出来驕Bありがたい事だ。今度のお客は何者であろう。
見ると年頃は十七八、雪江さんと追《お》っつ、返《か》っつの書生である。大きな頭を地《じ》の隙《す》いて見えるほど刈り込んで団子《だんご》っ鼻《ぱな》を顔の真中にかためて、座敷の隅の方に控《ひか》えている。別にこれと云う特徴もないが頭蓋骨《ずがいこつ》だけはすこぶる大きい。青坊主に刈ってさえ、ああ大きく見えるのだから、主人のように長く延ばしたら定めし人目を惹《ひ》く事だろう。こんな顔にかぎって学問はあまり出来ない者だとは、かねてより主人の持説である。事実はそうかも知れないがちょっと見るとナポレオンのようですこぶる偉観である。着物は通例の書生のごとく、薩摩絣《さつまがすり》か、久留米《くるめ》がすりかまた伊予《いよ》絣か分らないが、ともかくも絣《かすり》と名づけられたる袷《あわせ》を袖短かに着こなして、下には襯衣《シャツ》も襦袢《じゅばん》もないようだ。素袷《すあわせ》や素足《すあし》は意気なものだそうだが、この男のはなはだむさ苦しい感じを与える。ことに畳の上に泥棒のような親指を歴然と三つまで印《いん》しているのは全く素足の責任に相違ない。彼は四つ目の足跡の上へちゃんと坐って、さも窮屈そうに畏《か》しこまっている。一体かしこまるべきものがおとなしく控《ひか》えるのは別段気にするにも及ばんが、毬栗頭《いがぐりあたま》のつんつるてんの乱暴者
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