驍站`勇公に奉じたる将士は久しく万里の異境に在《あ》りて克《よ》く寒暑の苦難を忍び一意戦闘に従事し命《めい》を国家に捧げたるの至誠は永く銘して忘るべからざる所なり而《しこう》して軍隊の凱旋は本月を以て殆《ほと》んど終了を告げんとす依って本会は来る二十五日を期し本区内一千有余の出征将校下士卒に対し本区民一般を代表し以て一大凱旋祝賀会を開催し兼て軍人遺族を慰藉《いしゃ》せんが為め熱誠|之《これ》を迎え聊《いささか》感謝の微衷《びちゅう》を表し度《たく》就《つい》ては各位の御協賛を仰ぎ此盛典を挙行するの幸《さいわい》を得ば本会の面目|不過之《これにすぎず》と存|候《そろ》間|何卒《なにとぞ》御賛成|奮《ふる》って義捐《ぎえん》あらんことを只管《ひたすら》希望の至に堪《た》えず候《そろ》敬具
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とあって差し出し人は華族様である。主人は黙読一過の後《のち》直ちに封の中へ巻き納めて知らん顔をしている。義捐などは恐らくしそうにない。せんだって東北凶作の義捐金を二円とか三円とか出してから、逢う人|毎《ごと》に義捐をとられた、とられたと吹聴《ふいちょう》しているくらいである。義捐とある以上は差し出すもので、とられるものでないには極《きま》っている。泥棒にあったのではあるまいし、とられたとは不穏当である。しかるにも関せず、盗難にでも罹《かか》ったかのごとくに思ってるらしい主人がいかに軍隊の歓迎だと云って、いかに華族様の勧誘だと云って、強談《ごうだん》で持ちかけたらいざ知らず、活版の手紙くらいで金銭を出すような人間とは思われない。主人から云えば軍隊を歓迎する前にまず自分を歓迎したいのである。自分を歓迎した後《あと》なら大抵のものは歓迎しそうであるが、自分が朝夕《ちょうせき》に差《さ》し支《つか》える間は、歓迎は華族様に任《まか》せておく了見らしい。主人は第二信を取り上げたが「ヤ、これも活版だ」と云った。
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時下秋冷の候《こう》に候《そろ》処貴家益々御隆盛の段|奉賀上候《がしあげたてまつりそろ》陳《のぶ》れば本校儀も御承知の通り一昨々年以来二三野心家の為めに妨げられ一時其極に達し候得共《そうらえども》是れ皆|不肖針作《ふしょうしんさく》が足らざる所に起因すと存じ深く自《みずか》ら警《いまし》むる所あり臥薪甞胆《がしんしょうたん》其の苦辛《くしん》の結果|漸《ようや》く茲《ここ》に独力以て我が理想に適するだけの校舎新築費を得るの途を講じ候《そろ》其《そ》は別義にも御座なく別冊裁縫秘術綱要と命名せる書冊出版の義に御座|候《そろ》本書は不肖|針作《しんさく》が多年苦心研究せる工芸上の原理原則に法《のっ》とり真に肉を裂き血を絞るの思を為《な》して著述せるものに御座|候《そろ》因《よ》って本書を普《あまね》く一般の家庭へ製本実費に些少《さしょう》の利潤を附して御購求《ごこうきゅう》を願い一面|斯道《しどう》発達の一助となすと同時に又一面には僅少《きんしょう》の利潤を蓄積して校舎建築費に当つる心算《つもり》に御座|候《そろ》依っては近頃|何共《なんとも》恐縮の至りに存じ候えども本校建築費中へ御寄附|被成下《なしくださる》と御思召《おぼしめ》し茲《ここ》に呈供仕|候《そろ》秘術綱要一部を御購求の上御侍女の方へなりとも御分与|被成下候《なしくだされそろ》て御賛同の意を御表章|被成下度《なしくだされたく》伏して懇願仕|候《そろ》※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》敬具
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[#地から5字上げ]大日本女子裁縫最高等大学院
[#地から2字上げ]校長 縫田針作《ぬいだしんさく》 九拝
とある。主人はこの鄭重《ていちょう》なる書面を、冷淡に丸めてぽんと屑籠《くずかご》の中へ抛《ほう》り込んだ。せっかくの針作君の九拝も臥薪甞胆も何の役にも立たなかったのは気の毒である。第三信にかかる。第三信はすこぶる風変りの光彩を放っている。状袋が紅白のだんだらで、飴《あめ》ん棒《ぼう》の看板のごとくはなやかなる真中に珍野苦沙弥《ちんのくしゃみ》先生|虎皮下《こひか》と八分体《はっぷんたい》で肉太に認《したた》めてある。中からお太《た》さんが出るかどうだか受け合わないが表《おもて》だけはすこぶる立派なものだ。
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若《も》し我を以て天地を律すれば一口《ひとくち》にして西江《せいこう》の水を吸いつくすべく、若《も》し天地を以て我を律すれば我は則《すなわ》ち陌上《はくじょう》の塵のみ。すべからく道《い》え、天地と我と什麼《いんも》の交渉かある。……始めて海鼠《なまこ》を食い出《いだ》せる人は其胆力に於て敬すべく、始めて河豚《ふぐ》を喫《きつ》せる漢《おとこ》は其勇気に於《おい》て重んずべし。海鼠を食《くら》えるものは親鸞《しんらん》の再来にして、河豚《ふぐ》を喫せるものは日蓮《にちれん》の分身なり。苦沙弥先生の如きに至っては只《ただ》干瓢《かんぴょう》の酢味噌《すみそ》を知るのみ。干瓢の酢味噌を食《くら》って天下の士たるものは、われ未《いま》だ之《これ》を見ず。……
親友も汝《なんじ》を売るべし。父母《ふぼ》も汝に私《わたくし》あるべし。愛人も汝を棄つべし。富貴《ふっき》は固《もと》より頼みがたかるべし。爵禄《しゃくろく》は一朝《いっちょう》にして失うべし。汝の頭中に秘蔵する学問には黴《かび》が生《は》えるべし。汝何を恃《たの》まんとするか。天地の裡《うち》に何をたのまんとするか。神? 神は人間の苦しまぎれに捏造《でつぞう》せる土偶《どぐう》のみ。人間のせつな糞《ぐそ》の凝結せる臭骸のみ。恃《たの》むまじきを恃んで安しと云う。咄々《とつとつ》、酔漢|漫《みだ》りに胡乱《うろん》の言辞を弄して、蹣跚《まんさん》として墓に向う。油尽きて灯《とう》自《おのずか》ら滅す。業尽きて何物をか遺《のこ》す。苦沙弥先生よろしく御茶でも上がれ。……
人を人と思わざれば畏《おそ》るる所なし。人を人と思わざるものが、吾を吾と思わざる世を憤《いきどお》るは如何《いかん》。権貴栄達の士は人を人と思わざるに於て得たるが如し。只《ただ》他《ひと》の吾を吾と思わぬ時に於て怫然《ふつぜん》として色を作《な》す。任意に色を作し来れ。馬鹿野郎。……
吾の人を人と思うとき、他《ひと》の吾を吾と思わぬ時、不平家は発作的《ほっさてき》に天降《あまくだ》る。此発作的活動を名づけて革命という。革命は不平家の所為にあらず。権貴栄達の士が好んで産する所なり。朝鮮に人参《にんじん》多し先生何が故に服せざる。
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[#地から2字上げ]在巣鴨 天道公平《てんどうこうへい》 再拝
針作君は九拝であったが、この男は単に再拝だけである。寄附金の依頼でないだけに七拝ほど横風《おうふう》に構えている。寄附金の依頼ではないがその代りすこぶる分りにくいものだ。どこの雑誌へ出しても没書になる価値は充分あるのだから、頭脳の不透明をもって鳴る主人は必ず寸断寸断《ずたずた》に引き裂いてしまうだろうと思《おもい》のほか、打ち返し打ち返し読み直している。こんな手紙に意味があると考えて、あくまでその意味を究《きわ》めようという決心かも知れない。およそ天地の間《かん》にわからんものは沢山あるが意味をつけてつかないものは一つもない。どんなむずかしい文章でも解釈しようとすれば容易に解釈の出来るものだ。人間は馬鹿であると云おうが、人間は利口であると云おうが手もなくわかる事だ。それどころではない。人間は犬であると云っても豚であると云っても別に苦しむほどの命題ではない。山は低いと云っても構わん、宇宙は狭いと云っても差《さ》し支《つか》えはない。烏が白くて小町が醜婦で苦沙弥先生が君子でも通らん事はない。だからこんな無意味な手紙でも何とか蚊《か》とか理窟《りくつ》さえつければどうとも意味はとれる。ことに主人のように知らぬ英語を無理矢理にこじ附けて説明し通して来た男はなおさら意味をつけたがるのである。天気の悪るいのになぜグード・モーニングですかと生徒に問われて七日間《なぬかかん》考えたり、コロンバスと云う名は日本語で何と云いますかと聞かれて三日三晩かかって答を工夫するくらいな男には、干瓢《かんぴょう》の酢味噌《すみそ》が天下の士であろうと、朝鮮の仁参《にんじん》を食って革命を起そうと随意な意味は随処に湧《わ》き出る訳である。主人はしばらくしてグード・モーニング流にこの難解な言句《ごんく》を呑み込んだと見えて「なかなか意味深長だ。何でもよほど哲理を研究した人に違ない。天晴《あっぱれ》な見識だ」と大変賞賛した。この一言《いちごん》でも主人の愚《ぐ》なところはよく分るが、翻《ひるがえ》って考えて見るといささかもっともな点もある。主人は何に寄らずわからぬものをありがたがる癖を有している。これはあながち主人に限った事でもなかろう。分らぬところには馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか気高《けだか》い心持が起るものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかったように吹聴《ふいちょう》するにも係《かかわ》らず、学者はわかった事をわゥらぬように講釈する。大学の講義でもわからん事を喋舌《しゃべ》る人は評判がよくってわかる事を説明する者は人望がないのでもよく知れる。主人がこの手紙に敬服したのも意義が明瞭であるからではない。その主旨が那辺《なへん》に存するかほとんど捕《とら》え難いからである。急に海鼠《なまこ》が出て来たり、せつな糞《ぐそ》が出てくるからである。だから主人がこの文章を尊敬する唯一の理由は、道家《どうけ》で道徳経を尊敬し、儒家《じゅか》で易経《えききょう》を尊敬し、禅家《ぜんけ》で臨済録《りんざいろく》を尊敬すると一般で全く分らんからである。但《ただ》し全然分らんでは気がすまんから勝手な註釈をつけてわかった顔だけはする。わからんものをわかったつもりで尊敬するのは昔から愉快なものである。――主人は恭《うやうや》しく八分体《はっぷんたい》の名筆を巻き納めて、これを机上に置いたまま懐手《ふところで》をして冥想《めいそう》に沈んでいる。
ところへ「頼む頼む」と玄関から大きな声で案内を乞う者がある。声は迷亭のようだが、迷亭に似合わずしきりに案内を頼んでいる。主人は先から書斎のうちでその声を聞いているのだが懐手のまま毫《ごう》も動こうとしない。取次に出るのは主人の役目でないという主義か、この主人は決して書斎から挨拶をした事がない。下女は先刻《さっき》洗濯《せんたく》石鹸《シャボン》を買いに出た。細君は憚《はばか》りである。すると取次に出べきものは吾輩だけになる。吾輩だって出るのはいやだ。すると客人は沓脱《くつぬぎ》から敷台へ飛び上がって障子を開け放ってつかつか上り込んで来た。主人も主人だが客も客だ。座敷の方へ行ったなと思うと襖《ふすま》を二三度あけたり閉《た》てたりして、今度は書斎の方へやってくる。
「おい冗談《じょうだん》じゃない。何をしているんだ、御客さんだよ」
「おや君か」
「おや君かもないもんだ。そこにいるなら何とか云えばいいのに、まるで空家《あきや》のようじゃないか」
「うん、ちと考え事があるもんだから」
「考えていたって通れ[#「通れ」に傍点]くらいは云えるだろう」
「云えん事もないさ」
「相変らず度胸がいいね」
「せんだってから精神の修養を力《つと》めているんだもの」
「物好きだな。精神を修養して返事が出来なくなった日には来客は御難だね。そんなに落ちつかれちゃ困るんだぜ。実は僕一人来たんじゃないよ。大変な御客さんを連れて来たんだよ。ちょっと出て逢ってくれ給え」
「誰を連れて来たんだい」
「誰でもいいからちょっと出て逢ってくれたまえ。是非君に逢いたいと云うんだから」
「誰だい」
「誰でもいいから立ちたまえ」
主人は懐手《ふところで》のままぬっと立ちながら「また人を担《かつ》ぐつもりだろう」と椽側《えんがわ》へ出て何の気もつかずに客間へ這入《は
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