以上は人間としては通用しない、獣類である。仮令《たとい》模写模型にせよ獣類の人間と伍するのは貴女の品位を害する訳である。でありますから妾等《しょうら》は出席御断わり申すと云われた。そこで職員共は話せない連中だとは思ったが、何しろ女は東西両国を通じて一種の装飾品である。米舂《こめつき》にもなれん志願兵にもなれないが、開校式には欠くべからざる化装道具《けしょうどうぐ》である。と云うところから仕方がない、呉服屋へ行って黒布《くろぬの》を三十五反|八分七《はちぶんのしち》買って来て例の獣類の人間にことごとく着物をきせた。失礼があってはならんと念に念を入れて顔まで着物をきせた。かようにしてようやくの事|滞《とどこお》りなく式をすましたと云う話がある。そのくらい衣服は人間にとって大切なものである。近頃は裸体画裸体画と云ってしきりに裸体を主張する先生もあるがあれはあやまっている。生れてから今日《こんにち》に至るまで一日も裸体になった事がない吾輩から見ると、どうしても間違っている。裸体は希臘《ギリシャ》、羅馬《ローマ》の遺風が文芸復興時代の淫靡《いんび》の風《ふう》に誘れcgから流行《はや》りだしたもので、希臘人や、羅馬人は平常《ふだん》から裸体を見做《みな》れていたのだから、これをもって風教上の利害の関係があるなどとは毫《ごう》も思い及ばなかったのだろうが北欧は寒い所だ。日本でさえ裸で道中がなるものかと云うくらいだから独逸《ドイツ》や英吉利《イギリス》で裸になっておれば死んでしまう。死んでしまってはつまらないから着物をきる。みんなが着物をきれば人間は服装の動物になる。一たび服装の動物となった後《のち》に、突然裸体動物に出逢えば人間とは認めない、獣《けだもの》と思う。それだから欧洲人ことに北方の欧洲人は裸体画、裸体像をもって獣として取り扱っていいのである。猫に劣る獣と認定していいのである。美しい? 美しくても構わんから、美しい獣と見做《みな》せばいいのである。こう云うと西洋婦人の礼服を見たかと云うものもあるかも知れないが、猫の事だから西洋婦人の礼服を拝見した事はない。聞くところによると彼等は胸をあらわし、肩をあらわし、腕をあらわしてこれを礼服と称しているそうだ。怪《け》しからん事だ。十四世紀頃までは彼等の出《い》で立《た》ちはしかく滑稽ではなかった、やはり普通の人間の着るものを着ておった。それがなぜこんな下等な軽術師《かるわざし》流に転化してきたかは面倒だから述べない。知る人ぞ知る、知らぬものは知らん顔をしておればよろしかろう。歴史はとにかく彼等はかかる異様な風態をして夜間だけは得々《とくとく》たるにも係わらず内心は少々人間らしいところもあると見えて、日が出ると、肩をすぼめる、胸をかくす、腕を包む、どこもかしこもことごとく見えなくしてしまうのみならず、足の爪一本でも人に見せるのを非常に恥辱と考えている。これで考えても彼等の礼服なるものは一種の頓珍漢的《とんちんかんてき》作用《さよう》によって、馬鹿と馬鹿の相談から成立したものだと云う事が分る。それが口惜《くや》しければ日中《にっちゅう》でも肩と胸と腕を出していて見るがいい。裸体信者だってその通りだ。それほど裸体がいいものなら娘を裸体にして、ついでに自分も裸になって上野公園を散歩でもするがいい、できない? 出来ないのではない、西洋人がやらないから、自分もやらないのだろう。現にこの不合理極まる礼服を着て威張って帝国ホテルなどへ出懸《でか》けるではないか。その因縁《いんねん》を尋ねると何にもない。ただ西洋人がきるから、着ると云うまでの事だろう。西洋人は強いから無理でも馬鹿気ていても真似なければやり切れないのだろう。長いものには捲《ま》かれろ、強いものには折れろ、重いものには圧《お》されろと、そうれろ[#「れろ」に傍点]尽しでは気が利《き》かんではないか。気が利《き》かんでも仕方がないと云うなら勘弁するから、あまり日本人をえらい者と思ってはいけない。学問といえどもその通りだがこれは服装に関係がない事だから以下略とする。
衣服はかくのごとく人間にも大事なものである。人間が衣服か、衣服が人間かと云うくらい重要な条件である。人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあらず、血の歴史にあらず、単に衣服の歴史であると申したいくらいだ。だから衣服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで化物《ばけもの》に邂逅《かいこう》したようだ。化物でも全体が申し合せて化物になれば、いわゆる化物は消えてなくなる訳だから構わんが、それでは人間自身が大《おおい》に困却する事になるばかりだ。その昔《むか》し自然は人間を平等なるものに製造して世の中に抛《ほう》り出した。だからどんな人間でも生れるときは必ず赤裸《あかはだか》である。もし人間の本性《ほんせい》が平等に安んずるものならば、よろしくこの赤裸のままで生長してしかるべきだろう。しかるに赤裸の一人が云うにはこう誰も彼も同じでは勉強する甲斐《かい》がない。骨を折った結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと云うところが目につくようにしたい。それについては何か人が見てあっと魂消《たまげ》る物をからだにつけて見たい。何か工夫はあるまいかと十年間考えてようやく猿股《さるまた》を発明してすぐさまこれを穿《は》いて、どうだ恐れ入ったろうと威張ってそこいらを歩いた。これが今日《こんにち》の車夫の先祖である。単簡《たんかん》なる猿股を発明するのに十年の長日月を費《つい》やしたのはいささか異《い》な感もあるが、それは今日から古代に溯《さかのぼ》って身を蒙昧《もうまい》の世界に置いて断定した結論と云うもので、その当時にこれくらいな大発明はなかったのである。デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」という三《み》つ子《ご》にでも分るような真理を考え出すのに十何年か懸ったそうだ。すべて考え出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明に十年を費やしたって車夫の智慧《ちえ》には出来過ぎると云わねばなるまい。さあ猿股が出来ると世の中で幅のきくのは車夫ばかりである。あまり車夫が猿股をつけて天下の大道を我物顔に横行|濶歩《かっぽ》するのを憎らしいと思って負けん気の化物が六年間工夫して羽織と云う無用の長物を発明した。すると猿股の勢力は頓《とみ》に衰えて、羽織全盛の時代となった。八百屋、生薬屋《きぐすりや》、呉服屋は皆この大発明家の末流《ばつりゅう》である。猿股期、羽織期の後《あと》に来るのが袴期《はかまき》である。これはA何だ羽織の癖にと癇癪《かんしゃく》を起した化物の考案になったもので、昔の武士今の官員などは皆この種属である。かように化物共がわれもわれもと異《い》を衒《てら》い新《しん》を競《きそ》って、ついには燕《つばめ》の尾にかたどった畸形《きけい》まで出現したが、退いてその由来を案ずると、何も無理矢理に、出鱈目《でたらめ》に、偶然に、漫然に持ち上がった事実では決してない。皆勝ちたい勝ちたいの勇猛心の凝《こ》ってさまざまの新形《しんがた》となったもので、おれは手前じゃないぞと振れてあるく代りに被《かぶ》っているのである。して見るとこの心理からして一大発見が出来る。それはほかでもない。自然は真空を忌《い》むごとく、人間は平等を嫌うと云う事だ。すでに平等を嫌ってやむを得ず衣服を骨肉のごとくかようにつけ纏《まと》う今日において、この本質の一部分たる、これ等を打ちやって、元の杢阿弥《もくあみ》の公平時代に帰るのは狂人の沙汰である。よし狂人の名称を甘んじても帰る事は到底出来ない。帰った連中を開明人《かいめいじん》の目から見れば化物である。仮令《たとい》世界何億万の人口を挙《あ》げて化物の域に引ずりおろしてこれなら平等だろう、みんなが化物だから恥ずかしい事はないと安心してもやっぱり駄目である。世界が化物になった翌日からまた化物の競争が始まる。着物をつけて競争が出来なければ化物なりで競争をやる。赤裸《あかはだか》は赤裸でどこまでも差別を立ててくる。この点から見ても衣服はとうてい脱ぐ事は出来ないものになっている。
しかるに今吾輩が眼下《がんか》に見下《みおろ》した人間の一団体は、この脱ぐべからざる猿股も羽織も乃至《ないし》袴《はかま》もことごとく棚の上に上げて、無遠慮にも本来の狂態を衆目環視《しゅうもくかんし》の裡《うち》に露出して平々然《へいへいぜん》と談笑を縦《ほしいま》まにしている。吾輩が先刻《さっき》一大奇観と云ったのはこの事である。吾輩は文明の諸君子のためにここに謹《つつし》んでその一般を紹介するの栄を有する。
何だかごちゃごちゃしていて何《な》にから記述していいか分らない。化物のやる事には規律がないから秩序立った証明をするのに骨が折れる。まず湯槽《ゆぶね》から述べよう。湯槽だか何だか分らないが、大方《おおかた》湯槽というものだろうと思うばかりである。幅が三尺くらい、長《ながさ》は一間半もあるか、それを二つに仕切って一つには白い湯が這入《はい》っている。何でも薬湯《くすりゆ》とか号するのだそうで、石灰《いしばい》を溶かし込んだような色に濁っている。もっともただ濁っているのではない。膏《あぶら》ぎって、重た気《げ》に濁っている。よく聞くと腐って見えるのも不思議はない、一週間に一度しか水を易《か》えないのだそうだ。その隣りは普通一般の湯の由《よし》だがこれまたもって透明、瑩徹《えいてつ》などとは誓って申されない。天水桶《てんすいおけ》を攪《か》き混《ま》ぜたくらいの価値はその色の上において充分あらわれている。これからが化物の記述だ。大分《だいぶ》骨が折れる。天水桶の方に、突っ立っている若造《わかぞう》が二人いる。立ったまま、向い合って湯をざぶざぶ腹の上へかけている。いい慰《なぐさ》みだ。双方共色の黒い点において間然《かんぜん》するところなきまでに発達している。この化物は大分《だいぶ》逞ましいなと見ていると、やがて一人が手拭で胸のあたりを撫《な》で廻しながら「金さん、どうも、ここが痛んでいけねえが何だろう」と聞くと金さんは「そりゃ胃さ、胃て云う奴は命をとるからね。用心しねえとあぶないよ」と熱心に忠告を加える。「だってこの左の方だぜ」た左肺《さはい》の方を指す。「そこが胃だあな。左が胃で、右が肺だよ」「そうかな、おらあまた胃はここいらかと思った」と今度は腰の辺を叩《たた》いて見せると、金さんは「そりゃ疝気《せんき》だあね」と云った。ところへ二十五六の薄い髯《ひげ》を生《は》やした男がどぶんと飛び込んだ。すると、からだに付いていた石鹸《シャボン》が垢《あか》と共に浮きあがる。鉄気《かなけ》のある水を透《す》かして見た時のようにきらきらと光る。その隣りに頭の禿《は》げた爺さんが五分刈を捕《とら》えて何か弁じている。双方共頭だけ浮かしているのみだ。「いやこう年をとっては駄目さね。人間もやきが廻っちゃ若い者には叶《かな》わないよ。しかし湯だけは今でも熱いのでないと心持が悪くてね」「旦那なんか丈夫なものですぜ。そのくらい元気がありゃ結\だ」「元気もないのさ。ただ病気をしないだけさ。人間は悪い事さえしなけりゃあ百二十までは生きるもんだからね」「へえ、そんなに生きるもんですか」「生きるとも百二十までは受け合う。御維新前《ごいっしんまえ》牛込に曲淵《まがりぶち》と云う旗本《はたもと》があって、そこにいた下男は百三十だったよ」「そいつは、よく生きたもんですね」「ああ、あんまり生き過ぎてつい自分の年を忘れてね。百までは覚えていましたがそれから忘れてしまいましたと云ってたよ。それでわしの知っていたのが百三十の時だったが、それで死んだんじゃない。それからどうなったか分らない。事によるとまだ生きてるかも知れない」と云いながら槽《ふね》から上《あが》る。髯《ひげ》を生《は》やしている男は雲母《きらら》のようなものを自分の廻りに蒔《ま》き散らしながら独《ひと》りでにやにや笑っていた。入れ代って飛び込んで来たのは
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