《か》んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉《のど》を滑《すべ》り込むところがねうちだよ」と思い切って箸《はし》を高く上げると蕎麦はようやくの事で地を離れた。左手《ゆんで》に受ける茶碗の中へ、箸を少しずつ落して、尻尾の先からだんだんに浸《ひた》すと、アーキミジスの理論によって、蕎麦の浸《つか》った分量だけツユ[#「cユ」に傍点]の嵩《かさ》が増してくる。ところが茶碗の中には元からツユ[#「ツユ」に傍点]が八分目|這入《はい》っているから、迷亭の箸にかかった蕎麦の四半分《しはんぶん》も浸《つか》らない先に茶碗はツユで一杯になってしまった。迷亭の箸は茶碗を去《さ》る五寸の上に至ってぴたりと留まったきりしばらく動かない。動かないのも無理はない。少しでも卸《おろ》せばツユ[#「ツユ」に傍点]が溢《こぼ》れるばかりである。迷亭もここに至って少し※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]躇《ちゅうちょ》の体《てい》であったが、たちまち脱兎《だっと》の勢を以て、口を箸の方へ持って行ったなと思う間《ま》もなく、つるつるちゅうと音がして咽喉笛《のどぶえ》が一二度|上下《じょうげ》へ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなっておった。見ると迷亭君の両眼から涙のようなものが一二滴|眼尻《めじり》から頬へ流れ出した。山葵《わさび》が利《き》いたものか、飲み込むのに骨が折れたものかこれはいまだに判然しない。「感心だなあ。よくそんなに一どきに飲み込めたものだ」と主人が敬服すると「御見事です事ねえ」と細君も迷亭の手際《てぎわ》を激賞した。迷亭は何にも云わないで箸を置いて胸を二三度|敲《たた》いたが「奥さん笊《ざる》は大抵三口半か四口で食うんですね。それより手数《てすう》を掛けちゃ旨《うま》く食えませんよ」とハンケチで口を拭いてちょっと一息入れている。
ところへ寒月君が、どう云う了見《りょうけん》かこの暑いのに御苦労にも冬帽を被《かぶ》って両足を埃《ほこり》だらけにしてやってくる。「いや好男子の御入来《ごにゅうらい》だが、喰い掛けたものだからちょっと失敬しますよ」と迷亭君は衆人環座《しゅうじんかんざ》の裏《うち》にあって臆面《おくめん》もなく残った蒸籠を平《たいら》げる。今度は先刻《さっき》のように目覚《めざま》しい食方もしなかった代りに、ハンケチを使って、中途で息を入れると云う不体裁もなく、蒸籠《せいろ》二つを安々とやってのけたのは結構だった。
「寒月君博士論文はもう脱稿するのかね」と主人が聞くと迷亭もその後《あと》から「金田令嬢がお待ちかねだから早々《そうそう》呈出《ていしゅつ》したまえ」と云う。寒月君は例のごとく薄気味の悪い笑を洩《も》らして「罪ですからなるべく早く出して安心させてやりたいのですが、何しろ問題が問題で、よほど労力の入《い》る研究を要するのですから」と本気の沙汰とも思われない事を本気の沙汰らしく云う。「そうさ問題が問題だから、そう鼻の言う通りにもならないね。もっともあの鼻なら充分鼻息をうかがうだけの価値はあるがね」と迷亭も寒月流な挨拶をする。比較的に真面目なのは主人である。「君の論文の問題は何とか云ったっけな」「蛙の眼球《めだま》の電動作用に対する紫外光線《しがいこうせん》の影響と云うのです」「そりゃ奇だね。さすがは寒月先生だ、蛙の眼球は振《ふる》ってるよ。どうだろう苦沙弥君、論文脱稿前にその問題だけでも金田家へ報知しておいては」主人は迷亭の云う事には取り合わないで「君そんな事が骨の折れる研究かね」と寒月君に聞く。「ええ、なかなか複雑な問題です、第一蛙の眼球のレンズの構造がそんな単簡《たんかん》なものでありませんからね。それでいろいろ実験もしなくちゃなりませんがまず丸い硝子《ガラス》の球《たま》をこしらえてそれからやろうと思っています」「硝子の球なんかガラス屋へ行けば訳ないじゃないか」「どうして――どうして」と寒月先生少々|反身《そりみ》になる。「元来|円《えん》とか直線とか云うのは幾何学的のもので、あの定義に合ったような理想的な円や直線は現実世界にはないもんです」「ないもんなら、廃《よ》したらよかろう」と迷亭が口を出す。「それでまず実験上|差《さ》し支《つか》えないくらいな球を作って見ようと思いましてね。せんだってからやり始めたのです」「出来たかい」と主人が訳のないようにきく。「出来るものですか」と寒月君が云ったが、これでは少々矛盾だと気が付いたと見えて「どうもむずかしいです。だんだん磨《す》って少しこっち側の半径が長過ぎるからと思ってそっちを心持落すと、さあ大変今度は向側《むこうがわ》が長くなる。そいつを骨を折ってようやく磨《す》り潰《つぶ》したかと思うと全体の形がいびつ[#「いびつ」に傍点]になるんです。やっとの思いでこのいびつ[#「いびつ」に傍点]を取るとまた直径に狂いが出来ます。始めは林檎《りんご》ほどな大きさのものがだんだ?ャさくなって苺《いちご》ほどになります。それでも根気よくやっていると大豆《だいず》ほどになります。大豆ほどになってもまだ完全な円は出来ませんよ。私も随分熱心に磨りましたが――この正月からガラス玉を大小六個磨り潰しましたよ」と嘘だか本当だか見当のつかぬところを喋々《ちょうちょう》と述べる。「どこでそんなに磨っているんだい」「やっぱり学校の実験室です、朝磨り始めて、昼飯のときちょっと休んでそれから暗くなるまで磨るんですが、なかなか楽じゃありません」「それじゃ君が近頃忙がしい忙がしいと云って毎日日曜でも学校へ行くのはその珠を磨りに行くんだね」「全く目下のところは朝から晩まで珠ばかり磨っています」「珠作りの博士となって入り込みしは――と云うところだね。しかしその熱心を聞かせたら、いかな鼻でも少しはありがたがるだろう。実は先日僕がある用事があって図書館へ行って帰りに門を出ようとしたら偶然|老梅《ろうばい》君に出逢ったのさ。あの男が卒業後図書館に足が向くとはよほど不思議な事だと思って感心に勉強するねと云ったら先生妙な顔をして、なに本を読みに来たんじゃない、今門前を通り掛ったらちょっと小用《こよう》がしたくなったから拝借に立ち寄ったんだと云ったんで大笑をしたが、老梅君と君とは反対の好例として新撰蒙求《しんせんもうぎゅう》に是非入れたいよ」と迷亭君例のごとく長たらしい註釈をつける。主人は少し真面目になって「君そう毎日毎日珠ばかり磨ってるのもよかろうが、元来いつ頃出来上るつもりかね」と聞く。「まあこの容子《ようす》じゃ十年くらいかかりそうです」と寒月君は主人より呑気《のんき》に見受けられる。「十年じゃ――もう少し早く磨り上げたらよかろう」「十年じゃ早い方です、事によると廿年くらいかかります」「そいつは大変だ、それじゃ容易に博士にゃなれないじゃないか」「ええ一日も早くなって安心さしてやりたいのですがとにかく珠を磨り上げなくっちゃ肝心の実験が出来ませんから……」
寒月君はちょっと句を切って「何、そんなにご心配には及びませんよ。金田でも私の珠ばかり磨ってる事はよく承知しています。実は二三日《にさんち》前行った時にもよく事情を話して来ました」としたり顔に述べ立てる。すると今まで三人の談話を分らぬながら傾聴していた細君が「それでも金田さんは家族中残らず、先月から大磯へ行っていらっしゃるじゃありませんか」と不審そうに尋ねる。寒月君もこれには少し辟易《へきえき》の体《てい》であったが「そりゃ妙ですな、どうしたんだろう」ととぼけている。こう云う時に重宝なのは迷亭君で、話の途切《とぎ》れた時、極《きま》りの悪い時、眠くなった時、困った時、どんな時でも必ず横合から飛び出してくる。「先月大磯へ行ったものに両三日《りょうさんち》前東京で逢うなどは神秘的でいい。いわゆる霊の交換だね。相思の情の切な時にはよくそう云う現象が起るものだ。ちょっと聞くと夢のようだが、夢にしても現実よりたしかな夢だ。奥さんのように別に思いも思われもしない苦沙弥君の所へ片付いて生涯《しょうがい》恋の何物たるを御解しにならん方には、御不審ももっともだが……」「あら何を証拠にそんな事をおっしゃるの。随分|軽蔑《けいべつ》なさるのね」と細君は中途から不意に迷亭に切り付ける。「君だって恋煩《こいわずら》いなんかした事はなさそうじゃないか」と主人も正面から細君に助太刀をする。「そりゃ僕の艶聞《えんぶん》などは、いくら有ってもみんな七十五日以上経過しているから、君方《きみがた》の記憶には残っていないかも知れないが――実はこれでも失恋の結果、この歳になるまで独身で暮らしているんだよ」と一順列座の顔を公平に見廻わす。「ホホホホ面白い事」と云ったのは細君で、「馬鹿にしていらあ」と庭の方を向いたのは主人である。ただ寒月君だけは「どうかその懐旧談を後学《こうがく》のために伺いたいもので」と相変らずにやにやする。
「僕のも大分《だいぶ》神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しい事に先生は永眠されたから、実のところ話す張合もないんだが、せっかくだから打ち開けるよ。その代りしまいまで謹聴しなくっちゃいけないよ」と念を押していよいよ本文に取り掛る。「回顧すると今を去る事――ええと――何年前だったかな――面倒だからほぼ十五六年前としておこう」「冗談《じょうだん》じゃない」と主人は鼻からフンと息をした。「大変物覚えが御悪いのね」と細君がひやかした。寒月君だけは約束を守って一言《いちごん》も云わずに、早くあとが聴きたいと云う風をする。「何でもある年の冬の事だが、僕が越後の国は蒲原郡《かんばらごおり》筍谷《たけのこだに》を通って、蛸壺峠《たこつぼとうげ》へかかって、これからいよいよ会津領《あいづりょう》[#ルビの「あいづりょう」は底本では「あいずりょう」]へ出ようとするところだ」「妙なところだな」と主人がまた邪魔をする。「だまって聴いていらっしゃいよ。面白いから」と細君が制する。「ところが日は暮れる、路は分らず、腹は減る、仕方がないから峠の真中にある一軒屋を敲《たた》いて、これこれかようかようしかじかの次第だから、どうか留めてくれと云うと、御安い御用です、さあ御上がんなさいと裸蝋燭《はだかろうそく》を僕の顔に差しつけた娘の顔を見て僕はぶるぶると悸《ふる》えたがね。僕はその時から恋と云う曲者《くせもの》の魔力を切実に自覚したね」「おやいやだ。そんな山の中にも美しい人があるんでしょうか」「山だって海だって、奥さん、その娘を一目あなたに見せたいと思うくらいですよ、文金《ぶんきん》の高島田《たかしまだ》に髪を結《い》いましてね」「へえー」と細君はあっけに取られている。「這入《はい》って見ると八畳の真中に大きな囲炉裏《いろり》が切ってあって、その周《まわ》りに娘と娘の爺《じい》さんと婆《ばあ》さんと僕と四人坐ったんですがね。さぞ御腹《おなか》が御減《おへ》りでしょうと云いますから、何でも善いから早く食わせ給えと請求したんです。すると爺さんがせっかくの御客さまだから蛇飯《へびめし》でも炊《た》いて上げようと云うんです。さあこれからがいよいよ失恋に取り掛るところだからしっかりして聴きたまえ」「先生しっかりして聴く事は聴きますが、なんぼ越後の国だって冬、蛇がいやしますまい」「うん、そりゃ一応もっともな質問だよ。しかしこんな詩的な話しノなるとそう理窟《りくつ》にばかり拘泥《こうでい》してはいられないからね。鏡花の小説にゃ雪の中から蟹《かに》が出てくるじゃないか」と云ったら寒月君は「なるほど」と云ったきりまた謹聴の態度に復した。
「その時分の僕は随分|悪《あく》もの食いの隊長で、蝗《いなご》、なめくじ、赤蛙などは食い厭《あ》きていたくらいなところだから、蛇飯は乙《おつ》だ。早速御馳走になろうと爺さんに返事をした。そこで爺さん囲炉裏の上へ鍋《なべ》をかけて、その中へ米を入れてぐずぐず煮出したものだね。不思議な事にはその鍋《なべ》の蓋《ふた》を見ると大小十個ばかりの穴があいて
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