牛ですよ」と図に乗っていよいよ変ちきりんな事を言うと、果せるかな細君は分らない。しかし最前の倒行して逆施すで少々|懲《こ》りているから、今度はただ「へえー」と云ったのみで問い返さなかった。これを問い返されないと迷亭はせっかく持ち出した甲斐《かい》がない。「奥さん、ハーキュリスの牛を御存じですか」「そんな牛は存じませんわ」「御存じないですか、ちょっと講釈をしましょうか」と云うと細君もそれには及びませんとも言い兼ねたものだから「ええ」と云った。「昔《むか》しハーキュリスが牛を引っ張って来たんです」「そのハーキュリスと云うのは牛飼ででもござんすか」「牛飼じゃありませんよ。牛飼やいろはの亭主じゃありません。その節は希臘《ギリシャ》にまだ牛肉屋が一軒もない時分の事ですからね」「あら希臘のお話しなの? そんなら、そうおっしゃればいいのに」と細君は希臘と云う国名だけは心得ている。「だってハーキュリスじゃありませんか」「ハーキュリスなら希臘なんですか」「ええハーキュリスは希臘の英雄でさあ」「どうりで、知らないと思いました。それでその男がどうしたんで――」「その男がね奥さん見たように眠くなってぐうぐう寝ている――」「あらいやだ」「寝ている間《ま》に、ヴァルカンの子が来ましてね」「ヴァルカンて何です」「ヴァルカンは鍛冶屋《かじや》ですよ。この鍛冶屋のせがれがその牛を盗んだんでさあ。ところがね。牛の尻尾《しっぽ》を持ってぐいぐい引いて行ったもんだからハーキュリスが眼を覚《さ》まして牛やーい牛やーいと尋ねてあるいても分らないんです。分らないはずでさあ。牛の足跡をつけたって前の方へあるかして連れて行ったんじゃありませんもの、後《うし》ろへ後《うし》ろへと引きずって行ったんですからね。鍛冶屋のせがれにしては大出来ですよ」と迷亭先生はすでに天気のbは忘れている。
「時に御主人はどうしました。相変らず午睡《ひるね》ですかね。午睡も支那人の詩に出てくると風流だが、苦沙弥君のように日課としてやるのは少々俗気がありますね。何の事あない毎日少しずつ死んで見るようなものですぜ、奥さん御手数《おてすう》だがちょっと起していらっしゃい」と催促すると細君は同感と見えて「ええ、ほんとにあれでは困ります。第一あなた、からだが悪るくなるばかりですから。今御飯をいただいたばかりだのに」と立ちかけると迷亭先生は「奥さん、御飯と云やあ、僕はまだ御飯をいただかないんですがね」と平気な顔をして聞きもせぬ事を吹聴《ふいちょう》する。「おやまあ、時分どきだのにちっとも気が付きませんで――それじゃ何もございませんが御茶漬でも」「いえ御茶漬なんか頂戴しなくっても好いですよ」「それでも、あなた、どうせ御口に合うようなものはございませんが」と細君少々厭味を並べる。迷亭は悟ったもので「いえ御茶漬でも御湯漬でも御免蒙るんです。今途中で御馳走を誂《あつ》らえて来ましたから、そいつを一つここでいただきますよ」ととうてい素人《しろうと》には出来そうもない事を述べる。細君はたった一言《ひとこと》「まあ!」と云ったがそのまあ[#「まあ」に傍点]の中《うち》には驚ろいたまあ[#「まあ」に傍点]と、気を悪るくしたまあ[#「まあ」に傍点]と、手数《てすう》が省けてありがたいと云うまあ[#「まあ」に傍点]が合併している。
ところへ主人が、いつになくあまりやかましいので、寝つき掛った眠をさかに扱《こ》かれたような心持で、ふらふらと書斎から出て来る。「相変らずやかましい男だ。せっかく好い心持に寝ようとしたところを」と欠伸交《あくびまじ》りに仏頂面《ぶっちょうづら》をする。「いや御目覚《おめざめ》かね。鳳眠《ほうみん》を驚かし奉ってはなはだ相済まん。しかしたまには好かろう。さあ坐りたまえ」とどっちが客だか分らぬ挨拶をする。主人は無言のまま座に着いて寄木細工《よせぎざいく》の巻煙草《まきたばこ》入から「朝日」を一本出してすぱすぱ吸い始めたが、ふと向《むこう》の隅《すみ》に転がっている迷亭の帽子に眼をつけて「君帽子を買ったね」と云った。迷亭はすぐさま「どうだい」と自慢らしく主人と細君の前に差し出す。「まあ奇麗だ事。大変目が細かくって柔らかいんですね」と細君はしきりに撫で廻わす。「奥さんこの帽子は重宝《ちょうほう》ですよ、どうでも言う事を聞きますからね」と拳骨《げんこつ》をかためてパナマの横ッ腹をぽかりと張り付けると、なるほど意のごとく拳《こぶし》ほどな穴があいた。細君が「へえ」と驚く間《ま》もなく、この度《たび》は拳骨を裏側へ入れてうんと突ッ張ると釜《かま》の頭がぽかりと尖《と》んがる。次には帽子を取って鍔《つば》と鍔とを両側から圧《お》し潰《つぶ》して見せる。潰れた帽子は麺棒《めんぼう》で延《の》した蕎麦《そば》のように平たくなる。それを片端から蓆《むしろ》でも巻くごとくぐるぐる畳む。「どうですこの通り」と丸めた帽子を懐中へ入れて見せる。「不思議です事ねえ」と細君は帰天斎正一《きてんさいしょういち》の手品でも見物しているように感嘆すると、迷亭もその気になったものと見えて、右から懐中に収めた帽子をわざと左の袖口《そでぐち》から引っ張り出して「どこにも傷はありません」と元のごとくに直して、人さし指の先へ釜の底を載《の》せてくるくると廻す。もう休《や》めるかと思ったら最後にぽんと後《うし》ろへ放《な》げてその上へ堂《ど》っさりと尻餅を突いた。「君大丈夫かい」と主人さえ懸念《けねん》らしい顔をする。細君は無論の事心配そうに「せっかく見事な帽子をもし壊《こ》わしでもしちゃあ大変ですから、もう好い加減になすったら宜《よ》うござんしょう」と注意をする。得意なのは持主だけで「ところが壊われないから妙でしょう」と、くちゃくちゃになったのを尻の下から取りoしてそのまま頭へ載せると、不思議な事には、頭の恰好《かっこう》にたちまち回復する。「実に丈夫な帽子です事ねえ、どうしたんでしょう」と細君がいよいよ感心すると「なにどうもしたんじゃありません、元からこう云う帽子なんです」と迷亭は帽子を被ったまま細君に返事をしている。
「あなたも、あんな帽子を御買になったら、いいでしょう」としばらくして細君は主人に勧めかけた。「だって苦沙弥君は立派な麦藁《むぎわら》の奴を持ってるじゃありませんか」「ところがあなた、せんだって小供があれを踏み潰《つぶ》してしまいまして」「おやおやそりゃ惜しい[#「惜しい」は底本では「措しい」]事をしましたね」「だから今度はあなたのような丈夫で奇麗なのを買ったら善かろうと思いますんで」と細君はパナマの価段《ねだん》を知らないものだから「これになさいよ、ねえ、あなた」としきりに主人に勧告している。
迷亭君は今度は右の袂《たもと》の中から赤いケース入りの鋏《はさみ》を取り出して細君に見せる。「奥さん、帽子はそのくらいにしてこの鋏を御覧なさい。これがまたすこぶる重宝《ちょうほう》な奴で、これで十四通りに使えるんです」この鋏が出ないと主人は細君のためにパナマ責めになるところであったが、幸に細君が女として持って生れた好奇心のために、この厄運《やくうん》を免《まぬ》かれたのは迷亭の機転と云わんよりむしろ僥倖《ぎょうこう》の仕合せだと吾輩は看破した。「その鋏がどうして十四通りに使えます」と聞くや否や迷亭君は大得意な調子で「今一々説明しますから聞いていらっしゃい。いいですか。ここに三日月形《みかづきがた》の欠け目がありましょう、ここへ葉巻を入れてぷつりと口を切るんです。それからこの根にちょと細工がありましょう、これで針金をぽつぽつやりますね。次には平たくして紙の上へ横に置くと定規《じょうぎ》の用をする。また刃《は》の裏には度盛《どもり》がしてあるから物指《ものさし》の代用も出来る。こちらの表にはヤスリ[#「ヤスリ」に傍点]が付いているこれで爪を磨《す》りまさあ。ようがすか。この先《さ》きを螺旋鋲《らせんびょう》の頭へ刺し込んでぎりぎり廻すと金槌《かなづち》にも使える。うんと突き込んでこじ開けると大抵の釘付《くぎづけ》の箱なんざあ苦もなく蓋《ふた》がとれる。まった、こちらの刃の先は錐《きり》に出来ている。ここん所《とこ》は書き損いの字を削《けず》る場所で、ばらばらに離すと、ナイフとなる。一番しまいに――さあ奥さん、この一番しまいが大変面白いんです、ここに蠅《はえ》の眼玉くらいな大きさの球《たま》がありましょう、ちょっと、覗《のぞ》いて御覧なさい」「いやですわまたきっと馬鹿になさるんだから」「そう信用がなくっちゃ困ったね。だが欺《だま》されたと思って、ちょいと覗いて御覧なさいな。え? 厭《いや》ですか、ちょっとでいいから」と鋏《はさみ》を細君に渡す。細君は覚束《おぼつか》なげに鋏を取りあげて、例の蠅の眼玉の所へ自分の眼玉を付けてしきりに覘《ねらい》をつけている。「どうです」「何だか真黒ですわ」「真黒じゃいけませんね。も少し障子の方へ向いて、そう鋏を寝かさずに――そうそうそれなら見えるでしょう」「おやまあ写真ですねえ。どうしてこんな小さな写真を張り付けたんでしょう」「そこが面白いところでさあ」と細君と迷亭はしきりに問答をしトいる。最前から黙っていた主人はこの時急に写真が見たくなったものと見えて「おい俺にもちょっと覧《み》せろ」と云うと細君は鋏を顔へ押し付けたまま「実に奇麗です事、裸体の美人ですね」と云ってなかなか離さない。「おいちょっと御見せと云うのに」「まあ待っていらっしゃいよ。美くしい髪ですね。腰までありますよ。少し仰向《あおむ》いて恐ろしい背《せい》の高い女だ事、しかし美人ですね」「おい御見せと云ったら、大抵にして見せるがいい」と主人は大《おおい》に急《せ》き込んで細君に食って掛る。「へえ御待遠さま、たんと御覧遊ばせ」と細君が鋏を主人に渡す時に、勝手から御三《おさん》が御客さまの御誂《おあつらえ》が参りましたと、二個の笊蕎麦《ざるそば》を座敷へ持って来る。
「奥さんこれが僕の自弁《じべん》の御馳走ですよ。ちょっと御免蒙って、ここでぱくつく事に致しますから」と叮嚀《ていねい》に御辞儀をする。真面目なような巫山戯《ふざけ》たような動作だから細君も応対に窮したと見えて「さあどうぞ」と軽く返事をしたぎり拝見している。主人はようやく写真から眼を放して「君この暑いのに蕎麦《そば》は毒だぜ」と云った。「なあに大丈夫、好きなものは滅多《めった》に中《あた》るもんじゃない」と蒸籠《せいろ》の蓋《ふた》をとる。「打ち立てはありがたいな。蕎麦《そば》の延びたのと、人間の間《ま》が抜けたのは由来たのもしくないもんだよ」と薬味《やくみ》をツユ[#「ツユ」に傍点]の中へ入れて無茶苦茶に掻《か》き廻わす。「君そんなに山葵《わさび》を入れると辛《か》らいぜ」と主人は心配そうに注意した。「蕎麦はツユ[#「ツユ」に傍点]と山葵で食うもんだあね。君は蕎麦が嫌いなんだろう」「僕は饂飩《うどん》が好きだ」「饂飩は馬子《まご》が食うもんだ。蕎麦の味を解しない人ほど気の毒な事はない」と云いながら杉箸《すぎばし》をむざと突き込んで出来るだけ多くの分量を二寸ばかりの高さにしゃくい上げた。「奥さん蕎麦を食うにもいろいろ流儀がありますがね。初心《しょしん》の者に限って、無暗《むやみ》にツユ[#「ツユ」に傍点]を着けて、そうして口の内でくちゃくちゃやっていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ。何でも、こう、一《ひ》としゃくいに引っ掛けてね」と云いつつ箸を上げると、長い奴が勢揃《せいぞろ》いをして一尺ばかり空中に釣るし上げられる。迷亭先生もう善かろうと思って下を見ると、まだ十二三本の尾が蒸籠の底を離れないで簀垂《すだ》れの上に纏綿《てんめん》している。「こいつは長いな、どうです奥さん、この長さ加減は」とまた奥さんに相の手を要求する。奥さんは「長いものでございますね」とさも感心したらしい返事をする。「この長い奴へツユ[#「ツユ」に傍点]を三分一《さんぶいち》つけて、一口に飲んでしまうんだね。噛
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