いる。その穴から湯気がぷうぷう吹くから、旨《うま》い工夫をしたものだ、田舎《いなか》にしては感心だと見ていると、爺さんふと立って、どこかへ出て行ったがしばらくすると、大きな笊《ざる》を小脇に抱《か》い込んで帰って来た。何気なくこれを囲炉裏の傍《そば》へ置いたから、その中を覗《のぞ》いて見ると――いたね。長い奴が、寒いもんだから御互にとぐろ[#「とぐろ」に傍点]の捲《ま》きくらをやって塊《かた》まっていましたね」「もうそんな御話しは廃《よ》しになさいよ。厭らしい」と細君は眉に八の字を寄せる。「どうしてこれが失恋の大源因になるんだからなかなか廃せませんや。爺さんはやがて左手に鍋の蓋をとって、右手に例の塊まった長い奴を無雑作《むぞうさ》につかまえて、いきなり鍋の中へ放《ほう》り込んで、すぐ上から蓋をしたが、さすがの僕もその時ばかりははっと息の穴が塞《ふさが》ったかと思ったよ」「もう御やめになさいよ。気味《きび》の悪るい」と細君しきりに怖《こわ》がっている。「もう少しで失恋になるからしばらく辛抱《しんぼう》していらっしゃい。すると一分立つか立たないうちに蓋の穴から鎌首《かまくび》がひょいと一つ出ましたのには驚ろきましたよ。やあ出たなと思うと、隣の穴からもまたひょいと顔を出した。また出たよと云ううち、あちらからも出る。こちらからも出る。とうとう鍋中《なべじゅう》蛇の面《つら》だらけになってしまった」「なんで、そんなに首を出すんだい」「鍋の中が熱いから、苦しまぎれに這い出そうとするのさ。やがて爺さんは、もうよかろう、引っ張らっしとか何とか云うと、婆さんははあーと答える、娘はあいと挨拶をして、名々《めいめい》に蛇の頭を持ってぐいと引く。肉は鍋の中に残るが、骨だけは奇麗に離れて、頭を引くと共に長いのが面白いように抜け出してくる」「蛇の骨抜きですね」と寒月君が笑いながら聞くと「全くの事骨抜だ、器用な事をやるじゃないか。それから蓋を取って、杓子《しゃくし》でもって飯と肉を矢鱈《やたら》に掻sか》き交《ま》ぜて、さあ召し上がれと来た」「食ったのかい」と主人が冷淡に尋ねると、細君は苦《にが》い顔をして「もう廃《よ》しになさいよ、胸が悪るくって御飯も何もたべられやしない」と愚痴をこぼす。「奥さんは蛇飯を召し上がらんから、そんな事をおっしゃるが、まあ一遍たべてご覧なさい、あの味ばかりは生涯《しょうがい》忘れられませんぜ」「おお、いやだ、誰が食べるもんですか」「そこで充分|御饌《ごぜん》も頂戴し、寒さも忘れるし、娘の顔も遠慮なく見るし、もう思いおく事はないと考えていると、御休みなさいましと云うので、旅の労《つか》れもある事だから、仰《おおせ》に従って、ごろりと横になると、すまん訳だが前後を忘却して寝てしまった」「それからどうなさいました」と今度は細君の方から催促する。「それから明朝《あくるあさ》になって眼を覚《さま》してからが失恋でさあ」「どうかなさったんですか」「いえ別にどうもしやしませんがね。朝起きて巻煙草《まきたばこ》をふかしながら裏の窓から見ていると、向うの筧《かけひ》の傍《そば》で、薬缶頭《やかんあたま》が顔を洗っているんでさあ」「爺さんか婆さんか」と主人が聞く。「それがさ、僕にも識別しにくかったから、しばらく拝見していて、その薬缶がこちらを向く段になって驚ろいたね。それが僕の初恋をした昨夜《ゆうべ》の娘なんだもの」「だって娘は島田に結《い》っているとさっき云ったじゃないか」「前夜は島田さ、しかも見事な島田さ。ところが翌朝は丸薬缶さ」「人を馬鹿にしていらあ」と主人は例によって天井の方へ視線をそらす。「僕も不思議の極《きょく》内心少々|怖《こわ》くなったから、なお余所《よそ》ながら容子《ようす》を窺《うかが》っていると、薬缶はようやく顔を洗い了《おわ》って、傍《かた》えの石の上に置いてあった高島田の鬘《かずら》を無雑作に被《かぶ》って、すましてうちへ這入《はい》ったんでなるほどと思った。なるほどとは思ったようなもののその時から、とうとう失恋の果敢《はか》なき運命をかこつ身となってしまった」「くだらない失恋もあったもんだ。ねえ、寒月君、それだから、失恋でも、こんなに陽気で元気がいいんだよ」と主人が寒月君に向って迷亭君の失恋を評すると、寒月君は「しかしその娘が丸薬缶でなくってめでたく東京へでも連れて御帰りになったら、先生はなお元気かも知れませんよ、とにかくせっかくの娘が禿《はげ》であったのは千秋《せんしゅう》の恨事《こんじ》ですねえ。それにしても、そんな若い女がどうして、毛が抜けてしまったんでしょう」「僕もそれについてはだんだん考えたんだが全く蛇飯を食い過ぎたせいに相違ないと思う。蛇飯てえ奴はのぼせるからね」「しかしあなたは、どこも何ともなくて結構でございましたね」「僕は禿にはならずにすんだが、その代りにこの通りその時から近眼《きんがん》になりました」と金縁の眼鏡をとってハンケチで叮嚀《ていねい》に拭《ふ》いている。しばらくして主人は思い出したように「全体どこが神秘的なんだい」と念のために聞いて見る。「あの鬘はどこで買ったのか、拾ったのかどう考えても未《いま》だに分らないからそこが神秘さ」と迷亭君はまた眼鏡を元のごとく鼻の上へかける。「まるで噺《はな》し家《か》の話を聞くようでござんすね」とは細君の批評であった。
 迷亭の駄弁もこれで一段落を告げたから、もうやめるかと思いのほか、先生は猿轡《さるぐつわ》でも嵌《は》められないうちはとうてい黙っている事が出来ぬ性《たち》と見えて、また次のような事をしゃべり出した。
「僕の失恋も苦《にが》い経験だが、あの時あの薬缶《やかん》を知らずに貰ったが最後生涯の目障《めざわ》りになるんだから、よく考えないと険呑《けんのん》だよ。結婚なんかは、いざと云う間際になって、飛んだところに傷口が隠れているのを見出《みいだ》す事がある者だから。寒月君などもそんなに憧憬《しょうけい》したり※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《しょうきょう》したり独《ひと》りでむずかしがらないで、篤《とく》と気を落ちつけて珠《たま》を磨《す》るがいいよ」といやに異見めいた事を述べると、寒月君は「ええなるべく珠ばかり磨っていたいんですが、向うでそうさせないんだから弱り切ります」とわざと辟易《へきえき》したような顔付をする。「そうさ、君などは先方が騒ぎ立てるんだが、中には滑稽なのがあるよ。あの図書館へ小便をしに来た老梅《ろうばい》君などになるとすこぶる奇だからね」「どんな事をしたんだい」と主人が調子づいて承《うけたま》わる。「なあに、こう云う訳さ。先生その昔静岡の東西館へ泊った事があるのさ。――たった一と晩だぜ――それでその晩すぐにそこの下女に結婚を申し込んだのさ。僕も随分|呑気《のんき》だが、まだあれほどには進化しない。もっともその時分には、あの宿屋に御夏《おなつ》さんと云う有名な別嬪《べっぴん》がいて老梅君の座敷へ出たのがちょうどその御夏さんなのだから無理はないがね」「無理がないどころか君の何とか峠とまるで同じじゃないか」「少し似ているね、実を云うと僕と老梅とはそんなに差異はないからな。とにかく、その御夏さんに結婚を申し込んで、まだ返事を聞かないうちに水瓜《すいか》が食いたくなったんだがね」「何だって?」と主人が不思議な顔をする。主人ばかりではない、細君も寒月も申し合せたように首をひねってちょっと考えて見る。迷亭は構わずどんどん話を進行させる。「御夏さんを呼んで静岡に水瓜はあるまいかと聞くと、御夏さんが、なんぼ静岡だって水瓜くらいはありますよと、御盆に水瓜を山盛りにして持ってくる。そこで老梅君食ったそうだ。山盛りの水瓜をことごとく平らげて、御夏さんの返事を待っていると、返事の来ないうちに腹が痛み出してね、うーんうーんと唸《うな》ったが少しも利目《ききめ》がないからまた御夏さんを呼んで今度は静岡に医者はあるまいかと聞いたら、御夏さんがまた、なんぼ静岡だって医メくらいはありますよと云って、天地玄黄《てんちげんこう》とかいう千字文《せんじもん》を盗んだような名前のドクトルを連れて来た。翌朝《あくるあさ》になって、腹の痛みも御蔭でとれてありがたいと、出立する十五分前に御夏さんを呼んで、昨日《きのう》申し込んだ結婚事件の諾否を尋ねると、御夏さんは笑いながら静岡には水瓜もあります、御医者もありますが一夜作りの御嫁はありませんよと出て行ったきり顔を見せなかったそうだ。それから老梅君も僕同様失恋になって、図書館へは小便をするほか来なくなったんだって、考えると女は罪な者だよ」と云うと主人がいつになく引き受けて「本当にそうだ。せんだってミュッセの脚本を読んだらそのうちの人物が羅馬《ローマ》の詩人を引用してこんな事を云っていた。――羽より軽い者は塵《ちり》である。塵より軽いものは風である。風より軽い者は女である。女より軽いものは無《む》である。――よく穿《うが》ってるだろう。女なんか仕方がない」と妙なところで力味《りき》んで見せる。これを承《うけたまわ》った細君は承知しない。「女の軽いのがいけないとおっしゃるけれども、男の重いんだって好い事はないでしょう」「重いた、どんな事だ」「重いと云うな重い事ですわ、あなたのようなのです」「俺がなんで重い」「重いじゃありませんか」と妙な議論が始まる。迷亭は面白そうに聞いていたが、やがて口を開いて「そう赤くなって互に弁難攻撃をするところが夫婦の真相と云うものかな。どうも昔の夫婦なんてものはまるで無意味なものだったに違いない」とひやかすのだか賞《ほ》めるのだか曖昧《あいまい》な事を言ったが、それでやめておいても好い事をまた例の調子で布衍《ふえん》して、下《しも》のごとく述べられた。
「昔は亭主に口返答なんかした女は、一人もなかったんだって云うが、それなら唖《おし》を女房にしていると同じ事で僕などは一向《いっこう》ありがたくない。やっぱり奥さんのようにあなたは重いじゃありませんかとか何とか云われて見たいね。同じ女房を持つくらいなら、たまには喧嘩の一つ二つしなくっちゃ退屈でしようがないからな。僕の母などと来たら、おやじの前へ出てはい[#「はい」に傍点]とへい[#「へい」に傍点]で持ち切っていたものだ。そうして二十年もいっしょになっているうちに寺参りよりほかに外へ出た事がないと云うんだから情けないじゃないか。もっとも御蔭で先祖代々の戒名《かいみょう》はことごとく暗記している。男女間の交際だってそうさ、僕の小供の時分などは寒月君のように意中の人と合奏をしたり、霊の交換をやって朦朧体《もうろうたい》で出合って見たりする事はとうてい出来なかった」「御気の毒様で」と寒月君が頭を下げる。「実に御気の毒さ。しかもその時分の女が必《かなら》ずしも今の女より品行がいいと限らんからね。奥さん近頃は女学生が堕落したの何だのとやかましく云いますがね。なに昔はこれより烈《はげ》しかったんですよ」「そうでしょうか」と細君は真面目である。「そうですとも、出鱈目《でたらめ》じゃない、ちゃんと証拠があるから仕方がありませんや。苦沙弥君、君も覚えているかも知れんが僕等の五六歳の時までは女の子を唐茄子《とうなす》のように籠《かご》へ入れて天秤棒《てんびんぼう》で担《かつ》いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」「僕はそんな事は覚えておらん」「君の国じゃどうだか知らないが、静岡じゃたしかにそうだった」「まさか」と細君が小さい声を出すと、「本当ですか」と寒月君が本当らしからぬ様子で聞く。
「本当さ。現に僕のおやじが価《ね》を付けた事がある。その時僕は何でも六つくらいだったろう。おやじといっしょに油町《あぶらまち》から通町《とおりちょう》へ散歩に出ると、向うから大きな声をして女の子はよしかな、女の子はよしかなと怒鳴《どな》ってくる。僕等がちょうど二丁目の角へ来ると、伊勢源《いせげん》と云う呉服屋の
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