鼠を捕《と》らざるべからず。――吾輩はとうとう鼠をとる事に極《き》めた。
 せんだってじゅうから日本は露西亜《ロシア》と大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本|贔負《びいき》である。出来得べくんば混成《こんせい》猫旅団《ねこりょだん》を組織して露西亜兵を引っ掻《か》いてやりたいと思うくらいである。かくまでに元気|旺盛《おうせい》な吾輩の事であるから鼠の一疋や二疋はとろうとする意志さえあれば、寝ていても訳なく捕《と》れる。昔《むか》しある人当時有名な禅師に向って、どうしたら悟れましょうと聞いたら、猫が鼠を覘《ねら》うようにさしゃれと答えたそうだ。猫が鼠をとるようにとは、かくさえすれば外《は》ずれっこはござらぬと云う意味である。女|賢《さか》しゅうしてと云う諺はあるが猫|賢《さか》しゅうして鼠|捕《と》り損《そこな》うと云う格言はまだ無いはずだ。して見ればいかに賢《かし》こい吾輩のごときものでも鼠の捕れんはずはあるまい。とれんはずはあるまいどころか捕り損うはずはあるまい。今まで捕らんのは、捕りたくないからの事さ。春の日はきのうのごとく暮れて、折々の風に誘わるる花吹雪《はなふぶき》が台所の腰障子の破れから飛び込んで手桶《ておけ》の中に浮ぶ影が、薄暗き勝手用のランプの光りに白く見える。今夜こそ大手柄をして、うちじゅう驚かしてやろうと決心した吾輩は、あらかじめ戦場を見廻って地形を飲み込んでおく必要がある。戦闘線は勿論《もちろん》あまり広かろうはずがない。畳数にしたら四畳敷もあろうか、その一畳を仕切って半分は流し、半分は酒屋八百屋の御用を聞く土間である。へっついは貧乏勝手に似合わぬ立派な者で赤の銅壺《どうこ》がぴかぴかして、後《うし》ろは羽目板の間《ま》を二尺|遺《のこ》して吾輩の鮑貝《あわびがい》の所在地である。茶の間に近き六尺は膳椀《ぜんわん》皿小鉢《さらこばち》を入れる戸棚となって狭《せま》き台所をいとど狭く仕切って、横に差し出すむき出しの棚とすれすれの高さになっている。その下に摺鉢《すりばち》が仰向《あおむ》けに置かれて、摺鉢の中には小桶の尻が吾輩の方を向いている。大根卸し、摺小木《すりこぎ》が並んで懸《か》[#ルビの「か」は底本では「け」]けてある傍《かたわ》らに火消壺だけが悄然《しょうぜん》と控《ひか》えている。真黒になった樽木《たるき》の交叉した真中から一本の自在《じざい》を下ろして、先へは平たい大きな籠《かご》をかける。その籠が時々風に揺れて鷹揚《おうよう》に動いて「る。この籠は何のために釣るすのか、この家《うち》へ来たてには一向《いっこう》要領を得なかったが、猫の手の届かぬためわざと食物をここへ入れると云う事を知ってから、人間の意地の悪い事をしみじみ感じた。
 これから作戦計画だ。どこで鼠と戦争するかと云えば無論鼠の出る所でなければならぬ。いかにこっちに便宜《べんぎ》な地形だからと云って一人で待ち構えていてはてんで戦争にならん。ここにおいてか鼠の出口を研究する必要が生ずる。どの方面から来るかなと台所の真中に立って四方を見廻わす。何だか東郷大将のような心持がする。下女はさっき湯に行って戻って来《こ》ん。小供はとくに寝ている。主人は芋坂《いもざか》の団子を喰って帰って来て相変らず書斎に引き籠《こも》っている。細君は――細君は何をしているか知らない。大方居眠りをして山芋の夢でも見ているのだろう。時々門前を人力《じんりき》が通るが、通り過ぎた後《あと》は一段と淋しい。わが決心と云い、わが意気と云い台所の光景と云い、四辺《しへん》の寂寞《せきばく》と云い、全体の感じが悉《ことごと》く悲壮である。どうしても猫中《ねこちゅう》の東郷大将としか思われない。こう云う境界《きょうがい》に入ると物凄《ものすご》い内に一種の愉快を覚えるのは誰しも同じ事であるが、吾輩はこの愉快の底に一大心配が横《よこた》わっているのを発見した。鼠と戦争をするのは覚悟の前だから何疋来ても恐《こわ》くはないが、出てくる方面が明瞭でないのは不都合である。周密なる観察から得た材料を綜合《そうごう》して見ると鼠賊《そぞく》の逸出《いっしゅつ》するのには三つの行路がある。彼れらがもしどぶ鼠であるならば土管を沿うて流しから、へっついの裏手へ廻るに相違ない。その時は火消壺の影に隠れて、帰り道を絶ってやる。あるいは溝《みぞ》へ湯を抜く漆喰《しっくい》の穴より風呂場を迂回《うかい》して勝手へ不意に飛び出すかも知れない。そうしたら釜の蓋《ふた》の上に陣取って眼の下に来た時上から飛び下りて一攫《ひとつか》みにする。それからとまたあたりを見廻すと戸棚の戸の右の下隅が半月形《はんげつけい》に喰い破られて、彼等の出入《しゅつにゅう》に便なるかの疑がある。鼻を付けて臭《か》いで見ると少々鼠|臭《くさ》い。もしここから吶喊《とっかん》して出たら、柱を楯《たて》にやり過ごしておいて、横合からあっと爪をかける。もし天井から来たらと上を仰ぐと真黒な煤《すす》がランプの光で輝やいて、地獄を裏返しに釣るしたごとくちょっと吾輩の手際《てぎわ》では上《のぼ》る事も、下《くだ》る事も出来ん。まさかあんな高い処から落ちてくる事もなかろうからとこの方面だけは警???sと》く事にする。それにしても三方から攻撃される懸念《けねん》がある。一口なら片眼でも退治して見せる。二口ならどうにか、こうにかやってのける自信がある。しかし三口となるといかに本能的に鼠を捕《と》るべく予期せらるる吾輩も手の付けようがない。さればと云って車屋の黒ごときものを助勢に頼んでくるのも吾輩の威厳に関する。どうしたら好かろう。どうしたら好かろうと考えて好い智慧《ちえ》が出ない時は、そんな事は起る気遣《きづかい》はないと決めるのが一番安心を得る近道である。また法のつかない者は起らないと考えたくなるものである。まず世間を見渡して見給え。きのう貰った花嫁も今日死なんとも限らんではないか、しかし聟殿《むこどの》は玉椿千代も八千代もなど、おめでたい事を並べて心配らしい顔もせんではないか。心配せんのは、心配する価値がないからではない。いくら心配したって法が付かんからである。吾輩の場合でも三面攻撃は必ず起らぬと断言すべき相当の論拠はないのであるが、起らぬとする方が安心を得るに便利である。安心は万物に必要である。吾輩も安心を欲する。よって三面攻撃は起らぬと極《き》める。
 それでもまだ心配が取れぬから、どう云うものかとだんだん考えて見るとようやく分った。三個の計略のうちいずれを選んだのがもっとも得策であるかの問題に対して、自《みずか》ら明瞭なる答弁を得るに苦しむからの煩悶《はんもん》である。戸棚から出るときには吾輩これに応ずる策がある、風呂場から現われる時はこれに対する計《はかりごと》がある、また流しから這い上るときはこれを迎うる成算もあるが、そのうちどれか一つに極《き》めねばならぬとなると大《おおい》に当惑する。東郷大将はバルチック艦隊が対馬海峡《つしまかいきょう》を通るか、津軽海峡《つがるかいきょう》へ出るか、あるいは遠く宗谷海峡《そうやかいきょう》を廻るかについて大《おおい》に心配されたそうだが、今吾輩が吾輩自身の境遇から想像して見て、ご困却の段実に御察し申す。吾輩は全体の状況において東郷閣下に似ているのみならず、この格段なる地位においてもまた東郷閣下とよく苦心を同じゅうする者である。
 吾輩がかく夢中になって智謀をめぐらしていると、突然破れた腰障子が開《あ》いて御三《おさん》の顔がぬうと出る。顔だけ出ると云うのは、手足がないと云う訳ではない。ほかの部分は夜目《よめ》でよく見えんのに、顔だけが著るしく強い色をして判然|眸底《ぼうてい》に落つるからである。御三はその平常より赤き頬をますます赤くして洗湯から帰ったついでに、昨夜《ゆうべ》に懲《こ》りてか、早くから勝手の戸締《とじまり》をする。書斎で主人が俺のステッキを枕元へ出しておけと云う声が聞える。何のために枕頭にステッキを飾るのか吾輩には分らなかった。まさか易水《えきすい》の壮士を気取って、竜鳴《りゅうめい》を聞こうと云う酔狂でもあるまい。きのうは山の芋、今日《きょう》はステッキ、明日《あす》は何になるだろう。
 夜はまだ浅い鼠はなかなか出そうにない。吾輩は大戦の前に一と休養を要する。
 主人の勝手には引窓がない。座敷なら欄間《らんま》と云うような所が幅一尺ほど切り抜かれて夏冬吹き通しに引窓の代理を勤めている。惜し気もなく散る彼岸桜《ひがんざくら》を誘うて、颯《さっ》と吹き込む風に驚ろいて眼を覚《さ》ますと、朧月《おぼろづき》さえいつの間《ま》に差してか、竈《へっつい》の影は斜めに揚板《あげいた》の上にかかる。寝過ごしはせぬかと二三度耳を振って家内の容子《ようす》を窺《うかが》うと、しんとして昨夜のごとく柱時計の音のみ聞える。もう鼠の出る時分だ。どこから出るだろう。
 戸棚の中でことことと音がしだす。小皿の縁《ふち》を足で抑えて、中をあらしているらしい。ここから出るわいと穴の横へすくんで待っている。なかなか出て来る景色《けしき》はない。皿の音はやがてやんだが今度はどんぶりか何かに掛ったらしい、重い音が時々ごとごととする。しかも戸を隔ててすぐ向う側でやっている、吾輩の鼻づらと距離にしたら三寸も離れておらん。時々はちょろちょろと穴の口まで足音が近寄るが、また遠のいて一匹も顔を出すものはない。戸一枚向うに現在敵が暴行を逞《たくま》しくしているのに、吾輩はじっと穴の出口で待っておらねばならん随分気の長い話だ。鼠は旅順椀《りょじゅんわん》の中で盛に舞踏会を催うしている。せめて吾輩の這入《はい》れるだけ御三がこの戸を開けておけば善いのに、気の利かぬ山出しだ。
 今度はへっついの影で吾輩の鮑貝《あわびがい》がことりと鳴る。敵はこの方面へも来たなと、そーっと忍び足で近寄ると手桶《ておけ》の間から尻尾《しっぽ》がちらと見えたぎり流しの下へ隠れてしまった。しばらくすると風呂場でうがい茶碗が金盥《かなだらい》にかちりと当る。今度は後方《うしろ》だと振りむく途端に、五寸近くある大《おおき》な奴がひらりと歯磨の袋を落して椽《えん》の下へ馳《か》け込む。逃がすものかと続いて飛び下りたらもう影も姿も見えぬ。鼠を捕《と》るのは思ったよりむずかしい者である。吾輩は先天的鼠を捕る能力がないのか知らん。
 吾輩が風呂場へ廻ると、敵は戸棚から馳け出し、戸棚を警戒すると流しから飛び上り、台所の真中に頑張《がんば》っていると三方面共少々ずつ騒ぎ立てる。小癪《こしゃく》と云おうか、卑怯《ひきょう》と云おうかとうてい彼等は君子の敵でない。吾輩は十五六回はあちら、こちらと気を疲らし心《しん》を労《つか》らして奔走努力して見たがついに一度も成功しない。残念ではあるがかかる小人《しょうじん》を敵にしてはいかなる東郷大将も施《ほど》こすべき策がない。始めは勇気もあり敵愾心《てきがいしん》もあり悲壮と云う崇高な美感さえあったがついには面倒と馬鹿気ているのと眠いのと疲れたので台所の真中へ坐ったなり動かない事になった。しかし動かんでも八方睨《はっぽうにら》みを極《き》め込んでいれば敵は小人だから大した事は出来んのである。目ざす敵と思った奴が、存外けちな野郎だと、戦争が名誉だと云う感じが消えて悪《に》くいと云う念だけ残る。悪《に》くいと云う念を通り過すと張り合が抜けてぼーとする。ぼーとしたあとは勝手にしろ、どうせ気の利《き》いた事は出来ないのだからと軽蔑《けいべつ》の極《きょく》眠《ねむ》たくなる。吾輩は以上の径路をたどって、ついに眠くなった。吾輩は眠る。休養は敵中に在《あ》っても必要である。
 横向に庇《ひさし》を向いて開いた引窓から、また花吹雪《はなふぶき》を一塊《ひとかたま》りなげ込んで、烈しき風の吾を遶《めぐ》ると思えば、戸棚の口から弾丸のごとく飛び出した者が、避くる間《ま》もあらばこそ、風を切って吾輩の左の耳へ喰いつく。これに続く
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