ですな。なんちゅ愚《ぐ》な事です」と劈頭《へきとう》一番にやり込める。
「這入《はい》る奴が愚《ぐ》なんだ」と主人はどこまでも賢人をもって自任している。
「這入る方も愚だばってんが、取られた方もあまり賢《かし》こくはなかごたる」
「何にも取られるものの無い多々良さんのようなのが一番賢こいんでしょう」と細君が此度《こんど》は良人《おっと》の肩を持つ。
「しかし一番愚なのはこの猫ですばい。ほんにまあ、どう云う了見じゃろう。鼠は捕《と》らず泥棒が来ても知らん顔をしている。――先生この猫を私《わたし》にくんなさらんか。こうしておいたっちゃ何の役にも立ちませんばい」
「やっても好い。何にするんだ」
「煮て喰べます」
 主人は猛烈なるこの一言《いちごん》を聞いて、うふと気味の悪い胃弱性の笑を洩《も》らしたが、別段の返事もしないので、多々良君も是非食いたいとも云わなかったのは吾輩にとって望外の幸福である。主人はやがて話頭を転じて、
「猫はどうでも好いが、着物をとられたので寒くていかん」と大《おおい》に銷沈《しょうちん》の体《てい》である。なるほど寒いはずである。昨日《きのう》までは綿入を二枚重ねていたのに今日は袷《あわせ》に半袖《はんそで》のシャツだけで、朝から運動もせず枯坐《こざ》したぎりであるから、不充分な血液はことごとく胃のために働いて手足の方へは少しも巡回して来ない。
「先生教師などをしておったちゃとうていあかんですばい。ちょっと泥棒に逢っても、すぐ困る――一丁《いっちょう》今から考を換《か》えて実業家にでもなんなさらんか」
「先生は実業家は嫌《きらい》だから、そんな事を言ったって駄目よ」
 と細君が傍《そば》から多々良君に返事をする。細君は無論実業家になって貰いたいのである。
「先生学校を卒業して何年になんなさるか」
「今年で九年目でしょう」と細君は主人を顧《かえり》みる。主人はそうだとも、そうで無いとも云わない。
「九年立っても月給は上がらず。いくら勉強しても人は褒《ほ》めちゃくれず、郎君《ろうくん》独寂寞《ひとりせきばく》ですたい」と中学時代で覚えた詩の句を細君のために朗吟すると、細君はちょっと分りかねたものだから返事をしない。
「教師は無論|嫌《きらい》だが、実業家はなお嫌いだ」と主人は何が好きだか心の裏《うち》で考えているらしい。
「先生は何でも嫌なんだから……」
「嫌でないのは奥さんだけですか」と多々良君|柄《がら》に似合わぬ冗談《じょうだん》を云う。
「一番嫌だ」主人の返事はもっとも簡明である。細君は横を向いてちょっと澄《すま》したが再び主人の方を見て、
「生きていらっしゃるのも御嫌《おきらい》なんでしょう」と充分主人を凹《へこ》ましたつもりで云う。
「あまり好いてはおらん」と存外|呑気《のんき》な返事をする。これでは手のつけようがない。
「先生ちっと活溌《かっぱつ》に散歩でもしなさらんと、からだを壊《こわ》してしまいますばい。――そうして実業家になんなさい。金なんか儲《もう》けるのは、ほんに造作《ぞうさ》もない事でござります」
「少しも儲けもせん癖に」
「まだあなた、去年やっと会社へ這入《はい》ったばかりですもの。それでも先生より貯蓄があります」
「どのくらい貯蓄したの?」と細君は熱心に聞く。
「もう五十円になります」
「一体あなたの月給はどのくらいなの」これも細君の質問である。
「三十円ですたい。その内を毎月五円|宛《ずつ》会社の方で預って積んでおいて、いざと云う時にやります。――奥さん小遣銭で外濠線《そとぼりせん》の株を少し買いなさらんか、今から三四個月すると倍になります。ほんに少し金さえあれば、すぐ二倍にでも三倍にでもなります」
「そんな御金があれば泥棒に逢ったって困りゃしないわ」
「それだから実業家に限ると云うんです。先生も法科でもやって会社か銀行へでも出なされば、今頃は月に三四百円の収入はありますのに、惜しい事でござんしたな。――先生あの鈴木藤十郎と云う工学士を知ってなさるか」
「うん昨日《きのう》来た」
「そうでござんすか、せんだってある宴会で逢いました時先生の御話をしたら、そうか君は苦沙弥《くしゃみ》君のところの書生をしていたのか、僕も苦沙弥君とは昔《むか》し小石川の寺でいっしょに自炊をしておった事がある、今度行ったら宜《よろ》しく云うてくれ、僕もその内尋ねるからと云っていました」
「近頃東京へ来たそうだな」
「ええ今まで九州の炭坑におりましたが、こないだ東京|詰《づめ》になりました。なかなか旨《うま》いです。私《わたし》なぞにでも朋友のように話します。――先生あの男がいくら貰ってると思いなさる」
「知らん」
「月給が二百五十円で盆暮に配当がつきますから、何でも平均四五百円になりますばい。あげな男が、よかしこ取っておるのに、先生はリーダー専門で十年|一狐裘《いちこきゅう》じゃ馬鹿気ておりますなあ」
「実際馬鹿気ているな」と主人のような超然主義の人でも金銭の観念は普通の人間と異《こと》なるところはない。否困窮するだけに人一倍金が欲しいのかも知れない。多々良君は充分実業家の利益を吹聴《ふいちょう》してもう云う事が無くなったものだから
「奥さん、先生のところへ水島寒月と云う人《じん》が来ますか」
「ええ、善くいらっしゃいます」
「どげんな人物ですか」
「大変学問の出来る方だそうです」
「好男子ですか」
「ホホホホ多々良さんくらいなものでしょう」
「そうですか、私《わたし》くらいなものですか」と多々良君真面目である。
「どうして寒月の名を知っているのかい」と主人が聞く。
「せんだって或る人から頼まれました。そんな事を聞くだけの価値のある人物でしょうか」多々良君は聞かぬ先からすでに寒月以上に構えている。
「君よりよほどえらい男だ」
「そうでございますか、私《わたし》よりえらいですか」と笑いもせず怒《おこ》りもせぬ。これが多々良君の特色である。
「近々《きんきん》博士になりますか」
「今論文を書いてるそうだ」
「やっぱり馬鹿ですな。博士論文をかくなんて、もう少し話せる人物かと思ったら」
「相変らず、えらい見識ですね」と細君が笑いながら云う。
「博士になったら、だれとかの娘をやるとかやらんとか云うていましたから、そんな馬鹿があろうか、娘を貰うために博士になるなんて、そんな人物にくれるより僕にくれる方がよほどましだと云ってやりました」
「だれに」
「私《わたし》に水島の事を聞いてくれと頼んだ男です」
「鈴木じゃないか」
「いいえ、あの人にゃ、まだそんな事は云い切りません。向うは大頭ですから」
「多々良さんは蔭弁慶《かげべんけい》ね。うちへなんぞ来ちゃ大変威張っても鈴木さんなどの前へ出ると小さくなってるんでしょう」
「ええ。そうせんと、あぶないです」
「多々良、散歩をしようか」と突然主人が云う。先刻《さっき》から袷《あわせ》一枚であまり寒いので少し運動でもしたら暖かになるだろうと云う考から主人はこの先例のない動議を呈出したのである。行き当りばったりの多々良君は無論|逡巡《しゅんじゅん》する訳がない。
「行きましょう。上野にしますか。芋坂《いもざか》へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮《ふる》ってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱《くつぬぎ》へ下りる。
 吾輩はまた少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また尾行《びこう》する勇気もないからずっと略してその間《あいだ》休養せんければならん。休養は万物の旻天《びんてん》から要求してしかるべき権利である。この世に生息すべき義務を有して蠢動《しゅんどう》する者は、生息の義務を果すために休養を得ねばならぬ。もし神ありて汝《なんじ》は働くために生れたり寝るために生れたるに非ずと云わば吾輩はこれに答えて云わん、吾輩は仰せのごとく働くために生れたり故に働くために休養を乞うと。主人のごとく器械に不平を吹き込んだまでの木強漢《ぼくきょうかん》ですら、時々は日曜以外に自弁休養をやるではないか。多感多恨にして日夜心神を労する吾輩ごとき者は仮令《たとい》猫といえども主人以上に休養を要するは勿論の事である。ただ先刻《さっき》多々良君が吾輩を目して休養以外に何等の能もない贅物《ぜいぶつ》のごとくに罵《ののし》ったのは少々気掛りである。とかく物象《ぶっしょう》にのみ使役せらるる俗人は、五感の刺激以外に何等の活動もないので、他を評価するのでも形骸以外に渉《わた》らんのは厄介である。何でも尻でも端折《はしょ》って、汗でも出さないと働らいていないように考えている。達磨《だるま》と云う坊さんは足の腐るまで座禅をして澄ましていたと云うが、仮令《たとい》壁の隙《すき》から蔦《つた》が這い込んで大師の眼口を塞《ふさ》ぐまで動かないにしろ、寝ているんでも死んでいるんでもない。頭の中は常に活動して、廓然無聖《かくねんむしょう》などと乙な理窟を考え込んでいる。儒家にも静坐の工夫と云うのがあるそうだ。これだって一室の中《うち》に閉居して安閑と躄《いざり》の修行をするのではない。脳中の活力は人一倍|熾《さかん》に燃えている。ただ外見上は至極沈静端粛の態《てい》であるから、天下の凡眼はこれらの知識巨匠をもって昏睡仮死《こんすいかし》の庸人《ようじん》と見做《みな》して無用の長物とか穀潰《ごくつぶ》しとか入らざる誹謗《ひぼう》の声を立てるのである。これらの凡眼は皆形を見て心を見ざる不具なる視覚を有して生れついた者で、――しかも彼《か》の多々良三平君のごときは形を見て心を見ざる第一流の人物であるから、この三平君が吾輩を目して乾屎※[#「木+厥」、第3水準1−86−15]《かんしけつ》同等に心得るのももチともだが、恨むらくは少しく古今の書籍を読んで、やや事物の真相を解し得たる主人までが、浅薄なる三平君に一も二もなく同意して、猫鍋《ねこなべ》に故障を挟《さしはさ》む景色《けしき》のない事である。しかし一歩退いて考えて見ると、かくまでに彼等が吾輩を軽蔑《けいべつ》するのも、あながち無理ではない。大声は俚耳《りじ》に入らず、陽春白雪の詩には和するもの少なしの喩《たとえ》も古い昔からある事だ。形体以外の活動を見る能《あた》わざる者に向って己霊《これい》の光輝を見よと強《し》ゆるは、坊主に髪を結《い》えと逼《せま》るがごとく、鮪《まぐろ》に演説をして見ろと云うがごとく、電鉄に脱線を要求するがごとく、主人に辞職を勧告するごとく、三平に金の事を考えるなと云うがごときものである。必竟《ひっきょう》無理な注文に過ぎん。しかしながら猫といえども社会的動物である。社会的動物である以上はいかに高く自《みずか》ら標置するとも、或る程度までは社会と調和して行かねばならん。主人や細君や乃至《ないし》御《お》さん、三平|連《づれ》が吾輩を吾輩相当に評価してくれんのは残念ながら致し方がないとして、不明の結果皮を剥《は》いで三味線屋に売り飛ばし、肉を刻んで多々良君の膳に上《のぼ》すような無分別をやられては由々《ゆゆ》しき大事である。吾輩は頭をもって活動すべき天命を受けてこの娑婆《しゃば》に出現したほどの古今来《ここんらい》の猫であれば、非常に大事な身体である。千金の子《し》は堂陲《どうすい》に坐せずとの諺《ことわざ》もある事なれば、好んで超邁《ちょうまい》を宗《そう》として、徒《いたず》らに吾身の危険を求むるのは単に自己の災《わざわい》なるのみならず、また大いに天意に背《そむ》く訳である。猛虎も動物園に入れば糞豚《ふんとん》の隣りに居を占め、鴻雁《こうがん》も鳥屋に生擒《いけど》らるれば雛鶏《すうけい》と俎《まないた》を同《おな》じゅうす。庸人《ようじん》と相互《あいご》する以上は下《くだ》って庸猫《ようびょう》と化せざるべからず。庸猫たらんとすれば
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