から右告訴及《みぎこくそにおよび》候也《そうろうなり》という書面をお出しなさい。届ではない告訴です。名宛《なあて》はない方がいい」
「品物は一々かくんですか」
「ええ羽織何点代価いくらと云う風に表にして出すんです。――いや這入《はい》って見たって仕方がない。盗《と》られたあとなんだから」と平気な事を云って帰って行く。
主人は筆硯《ふですずり》を座敷の真中へ持ち出して、細君を前に呼びつけて「これから盗難告訴をかくから、盗られたものを一々云え。さあ云え」とあたかも喧嘩でもするような口調で云う。
「あら厭《いや》だ、さあ云えだなんて、そんな権柄《けんぺい》ずくで誰が云うもんですか」と細帯を巻き付けたままどっかと腰を据《す》える。
「その風はなんだ、宿場女郎の出来損《できそこな》い見たようだ。なぜ帯をしめて出て来ん」
「これで悪るければ買って下さい。宿場女郎でも何でも盗られりゃ仕方がないじゃありませんか」
「帯までとって行ったのか、苛《ひど》い奴だ。それじゃ帯から書き付けてやろう。帯はどんな帯だ」
「どんな帯って、そんなに何本もあるもんですか、黒繻子《くろじゅす》と縮緬《ちりめん》の腹合せの帯です」
「黒繻子と縮緬の腹合せの帯一筋――価《あたい》はいくらくらいだ」
「六円くらいでしょう」
「生意気に高い帯をしめてるな。今度から一円五十銭くらいのにしておけ」
「そんな帯があるものですか。それだからあなたは不人情だと云うんです。女房なんどは、どんな汚ない風をしていても、自分さい宜《よ》けりゃ、構わないんでしょう」
「まあいいや、それから何だ」
「糸織《いとおり》の羽織です、あれは河野《こうの》の叔母さんの形身《かたみ》にもらったんで、同じ糸織でも今の糸織とは、たちが違います」
「そんな講釈は聞かんでもいい。値段はいくらだ」
「十五円」
「十五円の羽織を着るなんて身分不相当だ」
「いいじゃありませんか、あなたに買っていただきゃあしまいし」
「その次は何だ」
「黒足袋が一足」
「御前のか」
「あなたんでさあね。代価が二十七銭」
「それから?」
「山の芋が一箱」
「山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
「どうするつもりか知りません。泥棒のところへ行って聞いていらっしゃい」
「いくらするか」
「山の芋のねだんまでは知りません」
「そんなら十二円五十銭くらいにしておこう」
「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津《からつ》から掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか」
「しかし御前は知らんと云うじゃないか」
「知りませんわ、知りませんが十二円五十銭なんて法外ですもの」
「知らんけれども十二円五十銭は法外だとは何だ。まるで論理に合わん。それだから貴様はオタンチン・パレオロガスだと云うんだ」
「何ですって」
「オタンチン・パレオロガスだよ」
「何ですそのオタンチン・パレオロガスって云うのは」
「何でもいい。それからあとは――俺の着物は一向《いっこう》出て来んじゃないか」
「あとは何でも宜《よ》うござんす。オタンチン・パレオロガスの意味を聞かして頂戴《ちょうだい》」
「意味も何《な》にもあるもんか」
「教えて下すってもいいじゃありませんか、あなたはよっぽど私を馬鹿にしていらっしゃるのね。きっと人が英語を知らないと思って悪口をおっしゃったんだよ」
「愚《ぐ》な事を言わんで、早くあとを云うが好い。早く告訴をせんと品物が返らんぞ」
「どうせ今から告訴をしたって間に合いやしません。それよりか、オタンチン・パレオロガスを教えて頂戴」
「うるさい女だな、意味も何にも無いと云うに」
「そんなら、品物の方もあとはありません」
「頑愚《がんぐ》だな。それでは勝手にするがいい。俺はもう盗難告訴を書いてやらんから」
「私も品数《しなかず》を教えて上げません。告訴はあなたが御自分でなさるんですから、私は書いていただかないでも困りません」
「それじゃ廃《よ》そう」と主人は例のごとくふいと立って書斎へ這入《はい》る。細君は茶の間へ引き下がって針箱の前へ坐る。両人《ふたり》共十分間ばかりは何にもせずに黙って障子を睨《にら》め付けている。
ところへ威勢よく玄関をあけて、山の芋の寄贈者|多々良三平《たたらさんぺい》君が上《あが》ってくる。多々良三平君はもとこの家《や》の書生であったが今では法科大学を卒業してある会社の鉱山部に雇われている。これも実業家の芽生《めばえ》で、鈴木藤十郎君の後進生である。三平君は以前の関係から時々旧先生の草廬《そうろ》を訪問して日曜などには一日遊んで帰るくらい、この家族とは遠慮のない間柄である。
「奥さん。よか天気でござります」と唐津訛《からつなま》りか何かで細君の前にズボン[#「ズボン」に傍点]のまま立て膝をつく。
「おや多々良さん」
「先生はどこぞ出なすったか」
「いいえ書斎にいます」
「奥さん、先生のごと勉強しなさると毒ですばい。たまの日曜だもの、あなた」
「わたしに言っても駄目だから、あなたが先生にそうおっしゃい」
「そればってんが……」と言い掛けた三平君は座敷中を見廻わして「今日は御嬢さんも見えんな」と半分妻君に聞いているや否や次の間《ま》からとん[#「とん」に傍点]子とすん[#「すん」に傍点]子が馳け出して来る。
「多々良さん、今日は御寿司《おすし》を持って来て?」と姉のとん子[#「とん子」に傍点]は先日の約束を覚えていて、三平君の顔を見るや否や催促する。多々良君は頭を掻《か》きながら
「よう覚えているのう、この次はきっと持って来ます。今日は忘れた」と白状する。
「いやーだ」と姉が云うと妹もすぐ真似をして「いやーだ」とつける。細君はようやく御機嫌が直って少々笑顔になる。
「寿司は持って来んが、山の芋は上げたろう。御嬢さん喰べなさったか」
「山の芋ってなあに?」と姉がきくと妹が今度もまた真似をして「山の芋ってなあに?」と三平君に尋ねる。
「まだ食いなさらんか、早く御母《おか》あさんに煮て御貰い。唐津《からつ》の山の芋は東京のとは違ってうまかあ」と三平君が国自慢をすると、細君はようやく気が付いて
「多々良さんせんだっては御親切に沢山ありがとう」
「どうです、喰べて見なすったか、折れんように箱を誂《あつ》らえて堅くつめて来たから、長いままでありましたろう」
「ところがせっかく下すった山の芋を夕《ゆう》べ泥棒に取られてしまって」
「ぬす盗《と》が? 馬鹿な奴ですなあ。そげん山の芋の好きな男がおりますか?」と三平君|大《おおい》に感心している。
「御母《おか》あさま、夕べ泥棒が這入《はい》ったの?」と姉が尋ねる。
「ええ」と細君は軽《かろ》く答える。
「泥棒が這入って――そうして――泥棒が這入って――どんな顔をして這入ったの?」と今度は妹が聞く。この奇問には細君も何と答えてよいか分らんので
「恐《こわ》い顔をして這入りました」と返事をして多々良君の方を見る。
「恐い顔って多々良さん見たような顔なの」と姉が気の毒そうにもなく、押し返して聞く。
「何ですね。そんな失礼な事を」
「ハハハハ私《わたし》の顔はそんなに恐いですか。困ったな」と頭を掻《か》く。多々良君の頭の後部には直径一寸ばかりの禿《はげ》がある。一カ月前から出来だして医者に見て貰ったが、まだ容易に癒《なお》りそうもない。この禿を第一番に見付けたのは姉のとん子である。
「あら多々良さんの頭は御母《おかあ》さまのように光《ひ》かってよ」
「だまっていらっしゃいと云うのに」
「御母あさま夕べの泥棒の頭も光かってて」とこれは妹の質問である。細君と多々良君とは思わず吹き出したが、あまり煩《わずら》わしくて話も何も出来ぬので「さあさあ御前さん達は少し御庭へ出て御遊びなさい。今に御母あさまが好い御菓子を上げるから」と細君はようやく子供を追いやって
「多々良さんの頭はどうしたの」と真面目に聞いて見る。
「虫が食いました。なかなか癒りません。奥さんも有んなさるか」
「やだわ、虫が食うなんて、そりゃ髷《まげ》で釣るところは女だから少しは禿げますさ」
「禿はみんなバクテリヤですばい」
「わたしのはバクテリヤじゃありません」
「そりゃ奥さん意地張りたい」
「何でもバクテリヤじゃありません。しかし英語で禿の事を何とか云うでしょう」
「禿はボールドとか云います」
「いいえ、それじゃないの、もっと長い名があるでしょう」
「先生に聞いたら、すぐわかりましょう」
「先生はどうしても教えて下さらないから、あなたに聞くんです」
「私《わたし》はボールドより知りませんが。長かって、どげんですか」
「オタンチン・パレオロガスと云うんです。オタンチンと云うのが禿と云う字で、パレオロガスが頭なんでしょう」
「そうかも知れませんたい。今に先生の書斎へ行ってウェブスターを引いて調べて上げましょう。しかし先生もよほど変っていなさいますな。この天気の好いのに、うちにじっとして――奥さん、あれじゃ胃病は癒りませんな。ちと上野へでも花見に出掛けなさるごと勧めなさい」
「あなたが連れ出して下さい。先生は女の云う事は決して聞かない人ですから」
「この頃でもジャムを舐《な》めなさるか」
「ええ相変らずです」
「せんだって、先生こぼしていなさいました。どうも妻《さい》が俺のジャムの舐め方が烈しいと云って困るが、俺はそんなに舐めるつもりはない。何か勘定違いだろうと云いなさるから、そりゃ御嬢さんや奥さんがいっしょに舐めなさるに違ない――」
「いやな多々良さんだ、何だってそんな事を云うんです」
「しかし奥さんだって舐めそうな顔をしていなさるばい」
「顔でそんな事がどうして分ります」
「分らんばってんが――それじゃ奥さん少しも舐めなさらんか」
「そりゃ少しは舐めますさ。舐めたって好いじゃありませんか。うちのものだもの」
「ハハハハそうだろうと思った――しかし本《ほん》の事《こと》、泥棒は飛んだ災難でしたな。山の芋ばかり持って行《い》たのですか」
「山の芋ばかりなら困りゃしませんが、不断着をみんな取って行きました」
「早速困りますか。また借金をしなければならんですか。この猫が犬ならよかったに――惜しい事をしたなあ。奥さん犬の大《ふと》か奴《やつ》を是非一丁飼いなさい。――猫は駄目ですばい、飯を食うばかりで――ちっとは鼠でも捕《と》りますか」
「一匹もとった事はありません。本当に横着な図々図々《ずうずう》しい猫ですよ」
「いやそりゃ、どうもこうもならん。早々棄てなさい。私《わたし》が貰って行って煮て食おうか知らん」
「あら、多々良さんは猫を食べるの」
「食いました。猫は旨《うも》うござります」
「随分豪傑ね」
下等な書生のうちには猫を食うような野蛮人がある由《よし》はかねて伝聞したが、吾輩が平生|眷顧《けんこ》を辱《かたじけの》うする多々良君その人もまたこの同類ならんとは今が今まで夢にも知らなかった。いわんや同君はすでに書生ではない、卒業の日は浅きにも係《かか》わらず堂々たる一個の法学士で、六《む》つ井《い》物産会社の役員であるのだから吾輩の驚愕《きょうがく》もまた一と通りではない。人を見たら泥棒と思えと云う格言は寒月第二世の行為によってすでに証拠立てられたが、人を見たら猫食いと思えとは吾輩も多々良君の御蔭によって始めて感得した真理である。世に住めば事を知る、事を知るは嬉しいが日に日に危険が多くて、日に日に油断がならなくなる。狡猾《こうかつ》になるのも卑劣になるのも表裏二枚合せの護身服を着けるのも皆事を知るの結果であって、事を知るのは年を取るの罪である。老人に碌《ろく》なものがいないのはこの理だな、吾輩などもあるいは今のうちに多々良君の鍋《なべ》の中で玉葱《たまねぎ》と共に成仏《じょうぶつ》する方が得策かも知れんと考えて隅《すみ》の方に小さくなっていると、最前《さいぜん》細君と喧嘩をして一反《いったん》書斎へ引き上げた主人は、多々良君の声を聞きつけて、のそのそ茶の間へ出てくる。
「先生泥棒に逢いなさったそう
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