つかない」
「これからいよいよ弾くところです」
「これからいよいよヴァイオリンを弾くところだよ。こっちへ出て来て、聞きたまえ」
「まだヴァイオリンかい。困ったな」
「君は無絃《むげん》の素琴《そきん》を弾ずる連中だから困らない方なんだが、寒月君のは、きいきいぴいぴい近所合壁《きんじょがっぺき》へ聞えるのだから大《おおい》に困ってるところだ」
「そうかい。寒月君近所へ聞えないようにヴァイオリンを弾く方《ほう》を知らんですか」
「知りませんね、あるなら伺いたいもので」
「伺わなくても露地《ろじ》の白牛《びゃくぎゅう》を見ればすぐ分るはずだが」と、何だか通じない事を云う。寒月君はねぼけてあんな珍語を弄《ろう》するのだろうと鑑定したから、わざと相手にならないで話頭を進めた。
「ようやくの事で一策を案出しました。あくる日は天長節だから、朝からうちにいて、つづらの蓋《ふた》をとって見たり、かぶせて見たり一日《いちんち》そわそわして暮らしてしまいましたがいよいよ日が暮れて、つづらの底で※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》が鳴き出した時思い切って例のヴァイオリンと弓を取り出しました」
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