人なく、鬼気|肌《はだえ》に逼《せま》って、魑魅《ちみ》鼻を衝《つ》く際《さい》に……」
「魑魅鼻を衝くとは何の事だい」
「そんな事を云うじゃありませんか、怖《こわ》い時に」
「そうかな。あんまり聞かないようだが。それで」
「それで虎が上野の老杉《ろうさん》の葉をことごとく振い落すような勢で鳴くでしょう。物凄いでさあ」
「そりゃ物凄いだろう」
「どうです冒険に出掛けませんか。きっと愉快だろうと思うんです。どうしても虎の鳴き声は夜なかに聞かなくっちゃ、聞いたとはいわれないだろうと思うんです」
「そうさな」と主人は武右衛門君の哀願に冷淡であるごとく、寒月君の探検にも冷淡である。
 この時まで黙然《もくねん》として虎の話を羨《うらや》ましそうに聞いていた武右衛門君は主人の「そうさな」で再び自分の身の上を思い出したと見えて、「先生、僕は心配なんですが、どうしたらいいでしょう」とまた聞き返す。寒月君は不審な顔をしてこの大きな頭を見た。吾輩は思う仔細《しさい》あってちょっと失敬して茶の間へ廻る。
 茶の間では細君がくすくす笑いながら、京焼の安茶碗に番茶を浪々《なみなみ》と注《つ》いで、アンチモニー
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