昔し親類に隠居がおって、その隠居が死んだ時、当分留守番を頼まれた事がある。ところがその後一戸を構えて、隠居所を引き払う際に、そこで自分のもののように使っていた火鉢を何の気もなく、つい持って来てしまったのだそうだ。少々たちが悪いようだ。考えるとたちが悪いようだがこんな事は世間に往々ある事だと思う。銀行家などは毎日人の金をあつかいつけているうちに人の金が、自分の金のように見えてくるそうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委托した代理人のようなものだ。ところが委任された権力を笠《かさ》に着て毎日事務を処理していると、これは自分が所有している権力で、人民などはこれについて何らの喙《くちばし》を容《い》るる理由がないものだなどと狂ってくる。こんな人が世の中に充満してい驤ネ上は長火鉢事件をもって主人に泥棒根性があると断定する訳には行かぬ。もし主人に泥棒根性があるとすれば、天下の人にはみんな泥棒根性がある。
長火鉢の傍《そば》に陣取って、食卓を前に控《ひか》えたる主人の三面には、先刻《さっき》雑巾《ぞうきん》で顔を洗った坊ば[#「坊ば」に傍点]と御茶《おちゃ》の味噌[#「
前へ
次へ
全750ページ中585ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング