ソ》へ移す時のような香《におい》がする。食おうかな、やめようかな、とあたりを見廻す。幸か不幸か誰もいない。御三《おさん》は暮も春も同じような顔をして羽根をついている。小供は奥座敷で「何とおっしゃる兎さん」を歌っている。食うとすれば今だ。もしこの機をはずすと来年までは餅というものの味を知らずに暮してしまわねばならぬ。吾輩はこの刹那《せつな》に猫ながら一の真理を感得した。「得難き機会はすべての動物をして、好まざる事をも敢てせしむ」吾輩は実を云うとそんなに雑煮を食いたくはないのである。否|椀底《わんてい》の様子を熟視すればするほど気味《きび》が悪くなって、食うのが厭になったのである。この時もし御三でも勝手口を開けたなら、奥の小供の足音がこちらへ近付くのを聞き得たなら、吾輩は惜気《おしげ》もなく椀を見棄てたろう、しかも雑煮の事は来年まで念頭に浮ばなかったろう。ところが誰も来ない、いくら※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]躇《ちゅうちょ》していても誰も来ない。早く食わぬか食わぬかと催促されるような心持がする。吾輩は椀の中を覗《のぞ》き込みながら、早く誰か来てくれればいいと念じた。やはり
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