トる。路頭に迷う結果はのたれ死にをしなければならない。換言すると免職は主人にとって死の遠因になるのである。主人は好んで病気をして喜こんでいるけれど、死ぬのは大嫌《だいきらい》である。死なない程度において病気と云う一種の贅沢《ぜいたく》がしていたいのである。それだからそんなに病気をしていると殺すぞと嚇《おど》かせば臆病なる主人の事だからびりびりと悸《ふる》え上がるに相違ない。この悸え上がる時に病気は奇麗に落ちるだろうと思う。それでも落ちなければそれまでの事さ。
いかに馬鹿でも病気でも主人に変りはない。一飯《いっぱん》君恩を重んずと云う詩人もある事だから猫だって主人の身の上を思わない事はあるまい。気の毒だと云う念が胸一杯になったため、ついそちらに気が取られて、流しの方の観察を怠《おこ》たっていると、突然白い湯槽《ゆぶね》の方面に向って口々に罵《ののし》る声が聞える。ここにも喧嘩が起ったのかと振り向くと、狭い柘榴口《ざくろぐち》に一寸《いっすん》の余地もないくらいに化物が取りついて、毛のある脛と、毛のない股と入り乱れて動いている。折から初秋《はつあき》の日は暮るるになんなんとして流しの上は
前へ
次へ
全750ページ中422ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング