た。――主人が偕老同穴《かいろうどうけつ》を契《ちぎ》った夫人の脳天の真中には真丸《まんまる》な大きな禿《はげ》がある。しかもその禿が暖かい日光を反射して、今や時を得顔に輝いている。思わざる辺《へん》にこの不思議な大発見をなした時の主人の眼は眩《まば》ゆい中に充分の驚きを示して、烈しい光線で瞳孔《どうこう》の開くのも構わず一心不乱に見つめている。主人がこの禿を見た時、第一彼の脳裏《のうり》に浮んだのはかの家《いえ》伝来の仏壇に幾世となく飾り付けられたる御灯明皿《おとうみょうざら》である。彼の一家《いっけ》は真宗で、真宗では仏壇に身分不相応な金を掛けるのが古例である。主人は幼少の時その家の倉の中に、薄暗く飾り付けられたる金箔《きんぱく》厚き厨子sずし》があって、その厨子の中にはいつでも真鍮《しんちゅう》の灯明皿がぶら下って、その灯明皿には昼でもぼんやりした灯《ひ》がついていた事を記憶している。周囲が暗い中にこの灯明皿が比較的明瞭に輝やいていたので小供心にこの灯を何遍となく見た時の印象が細君の禿に喚《よ》び起されて突然飛び出したものであろう。灯明皿は一分立たぬ間《ま》に消えた。この度《たび》は観音様《かんのんさま》の鳩の事を思い出す。観音様の鳩と細君の禿とは何等の関係もないようであるが、主人の頭では二つの間に密接な聯想がある。同じく小供の時分に浅草へ行くと必ず鳩に豆を買ってやった。豆は一皿が文久《ぶんきゅう》二つで、赤い土器《かわらけ》へ這入《はい》っていた。その土器《かわらけ》が、色と云い大《おおき》さと云いこの禿によく似ている。
「なるほど似ているな」と主人が、さも感心したらしく云うと「何がです」と細君は見向きもしない。
「何だって、御前の頭にゃ大きな禿があるぜ。知ってるか」
「ええ」と細君は依然として仕事の手をやめずに答える。別段露見を恐れた様子もない。超然たる模範妻君である。
「嫁にくるときからあるのか、結婚後新たに出来たのか」と主人が聞く。もし嫁にくる前から禿げているなら欺《だま》されたのであると口へは出さないが心の中《うち》で思う。
「いつ出来たんだか覚えちゃいませんわ、禿なんざどうだって宜《い》いじゃありませんか」と大《おおい》に悟ったものである。
「どうだって宜いって、自分の頭じゃないか」と主人は少々怒気を帯びている。
「自分の頭だから、どうだって宜《い》いんだわ」と云ったが、さすが少しは気になると見えて、右の手を頭に乗せて、くるくる禿を撫《な》でて見る。「おや大分《だいぶ》大きくなった事、こんなじゃ無いと思っていた」と言ったところをもって見ると、年に合わして禿があまり大き過ぎると云う事をようやく自覚したらしい。
「女は髷《まげ》に結《ゆ》うと、ここが釣れますから誰でも禿げるんですわ」と少しく弁護しだす。
「そんな速度で、みんな禿げたら、四十くらいになれば、から薬缶《やかん》ばかり出来なければならん。そりゃ病気に違いない。伝染するかも知れん、今のうち早く甘木さんに見て貰え」と主人はしきりに自分の頭を撫《な》で廻して見る。
「そんなに人の事をおっしゃるが、あなただって鼻の孔《あな》へ白髪《しらが》が生《は》えてるじゃありませんか。禿が伝染するなら白髪だって伝染しますわ」と細君少々ぷりぷりする。
「鼻の中の白髪は見えんから害はないが、脳天が――ことに若い女の脳天がそんなに禿げちゃ見苦しい。不具《かたわ》だ」
「不具《かたわ》なら、なぜ御貰いになったのです。御自分が好きで貰っておいて不具だなんて……」
「知らなかったからさ。全く今日《きょう》まで知らなかったんだ。そんなに威張るなら、なぜ嫁に来る時頭を見せなかったんだ」
「馬鹿な事を! どこの国に頭の試験をして及第したら嫁にくるなんて、ものが在るもんですか」
「禿はまあ我慢もするが、御前は背《せ》いが人並|外《はず》れて低い。はなはだ見苦しくていかん」
「背いは見ればすぐ分るじゃありませんか、背《せい》の低いのは最初から承知で御貰いになったんじゃありませんか」
「それは承知さ、承知には相違ないがまだ延びるかと思ったから貰ったのさ」
「廿《はたち》にもなって背《せ》いが延びるなんて――あなたもよっぽど人を馬鹿になさるのね」と細君は袖《そで》なしを抛《ほう》り出して主人の方に捩《ね》じ向く。返答次第ではその分にはすまさんと云う権幕《けんまく》である。
「廿《はたち》になったって背いが延びてならんと云う法はあるまい。嫁に来てから滋養分でも食わしたら、少しは延びる見込みがあると思ったんだ」と真面目な顔をして妙な理窟《りくつ》を述べていると門口《かどぐち》のベルが勢《いきおい》よく鳴り立てて頼むと云う大きな声がする。いよいよ鈴木君がペンペン草を目的《めあて》に苦沙弥《くしゃみ》先生
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