ぶ》で門へ貼《は》り付けるのでしょう。雨がふると剥《は》がれてしまいましょう。すると御天気の日にまた貼り付けるのです。だから標札は当《あて》にゃなりませんよ。あんな面倒臭い事をするよりせめて木札《きふだ》でも懸けたらよさそうなもんですがねえ。ほんとうにどこまでも気の知れない人ですよ」
「どうも驚きますな。しかし崩れた黒塀のうちと聞いたら大概分るでしょう」
「ええあんな汚ないうちは町内に一軒しかないから、すぐ分りますよ。あ、そうそうそれで分らなければ、好い事がある。何でも屋根に草が生《は》えたうちを探して行けば間違っこありませんよ」
「よほど特色のある家《いえ》ですなアハハハハ」
鈴木君が御光来になる前に帰らないと、少し都合が悪い。談話もこれだけ聞けば大丈夫沢山である。椽《えん》の下を伝わって雪隠《せついん》を西へ廻って築山《つきやま》の陰から往来へ出て、急ぎ足で屋根に草の生えているうちへ帰って来て何喰わぬ顔をして座敷の椽へ廻る。
主人は椽側へ白毛布《しろげっと》を敷いて、腹這《はらばい》になって麗《うらら》かな春日《はるび》に甲羅《こうら》を干している。太陽の光線は存外公平なもので屋根にペンペン草の目標のある陋屋《ろうおく》でも、金田君の客間のごとく陽気に暖かそうであるが、気の毒な事には毛布《けっと》だけが春らしくない。製造元では白のつもりで織り出して、唐物屋《とうぶつや》でも白の気で売り捌《さば》いたのみならず、主人も白と云う注文で買って来たのであるが――何しろ十二三年以前の事だから白の時代はとくに通り越してただ今は濃灰色《のうかいしょく》なる変色の時期に遭遇《そうぐう》しつつある。この時期を経過して他の暗黒色に化けるまで毛布の命が続くかどうだかは、疑問である。今でもすでに万遍なく擦《す》り切れて、竪横《たてよこ》の筋は明かに読まれるくらいだから、毛布と称するのはもはや僭上《せんじょう》の沙汰であって、毛の字は省《はぶ》いて単にット[#「ット」に傍点]とでも申すのが適当である。しかし主人の考えでは一年持ち、二年持ち、五年持ち十年持った以上は生涯《しょうがい》持たねばならぬと思っているらしい。随分|呑気《のんき》な事である。さてその因縁《いんねん》のある毛布《けっと》の上へ前《ぜん》申す通り腹這になって何をしているかと思うと両手で出張った顋《あご》を支えて、右手の指の股に巻煙草《まきたばこ》を挟んでいる。ただそれだけである。もっとも彼がフケ[#「フケ」に傍点]だらけの頭の裏《うち》には宇宙の大真理が火の車のごとく廻転しつつあるかも知れないが、外部から拝見したところでは、そんな事とは夢にも思えない。
煙草の火はだんだん吸口の方へ逼《せま》って、一寸《いっすん》ばかり燃え尽した灰の棒がぱたりと毛布の上に落つるのも構わず主人は一生懸命に煙草から立ち上《のぼ》る煙の行末を見詰めている。その煙りは春風に浮きつ沈みつ、流れる輪を幾重《いくえ》にも描いて、紫深き細君の洗髪《あらいがみ》の根本へ吹き寄せつつある。――おや、細君の事を話しておくはずだった。忘れていた。
細君は主人に尻《しり》を向けて――なに失礼な細君だ? 別に失礼な事はないさ。礼も非礼も相互の解釈次第でどうでもなる事だ。主人は平気で細君の尻のところへ頬杖《ほおづえ》を突き、細君は平気で主人の顔の先へ荘厳《そうごん》なる尻を据《す》えたまでの事で無礼も糸瓜《へちま》もないのである。御両人は結婚後一ヵ年も立たぬ間《ま》に礼儀作法などと窮屈な境遇を脱却せられた超然的夫婦である。――さてかくのごとく主人に尻を向けた細君はどう云う了見《りょうけん》か、今日の天気に乗じて、尺に余る緑の黒髪を、麩海苔《ふのり》と生卵でゴシゴシ洗濯せられた者と見えて癖のない奴を、見よがしに肩から背へ振りかけて、無言のまま小供の袖なしを熱心に縫っている。実はその洗髪を乾かすために唐縮緬《とうちりめん》の布団《ふとん》と針箱を椽側《えんがわ》へ出して、恭《うやうや》しく主人に尻を向けたのである。あるいは主人の方で尻のある見当《けんとう》へ顔を持って来たのかも知れない。そこで先刻御話しをした煙草《たばこ》の煙りが、豊かに靡《なび》く黒髪の間に流れ流れて、時ならぬ陽炎《かげろう》の燃えるところを主人は余念もなく眺めている。しかしながら煙は固《もと》より一所《いっしょ》に停《とど》まるものではない、その性質として上へ上へと立ち登るのだから主人の眼もこの煙りの髪毛《かみげ》と縺《もつ》れ合う奇観を落ちなく見ようとすれば、是非共眼を動かさなければならない。主人はまず腰の辺から観察を始めて徐々《じょじょ》と背中を伝《つた》って、肩から頸筋《くびすじ》に掛ったが、それを通り過ぎてようよう脳天に達した時、覚えずあっと驚い
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