…」と鮪《まぐろ》の刺身を食う時のごとく禿頭《はげあたま》をぴちゃぴちゃ叩《たた》く。もっとも吾輩は椽《えん》の下にいるから実際叩いたか叩かないか見えようはずがないが、この禿頭の音は近来|大分《だいぶ》聞馴れている。比丘尼《びくに》が木魚の音を聞き分けるごとく、椽の下からでも音さえたしかであればすぐ禿頭だなと出所《しゅっしょ》を鑑定する事が出来る。「そこでちょっと君を煩《わずら》わしたいと思ってな……」
「私に出来ます事なら何でも御遠慮なくどうか――今度東京勤務と云う事になりましたのも全くいろいろ御心配を掛けた結果にほかならん訳でありますから」と御客さんは快よく金田君の依頼を承諾する。この口調《くちょう》で見るとこの御客さんはやはり金田君の世話になる人と見える。いやだんだん事件が面白く発展してくるな、今日はあまり天気が宜《い》いので、来る気もなしに来たのであるが、こう云う好材料を得《え》ようとは全く思い掛《が》けなんだ。御彼岸《おひがん》にお寺詣《てらまい》りをして偶然|方丈《ほうじょう》で牡丹餅《ぼたもち》の御馳走になるような者だ。金田君はどんな事を客人に依頼するかなと、椽の下から耳を澄して聞いている。
「あの苦沙弥と云う変物《へんぶつ》が、どう云う訳か水島に入《い》れ智慧《ぢえ》をするので、あの金田の娘を貰っては行《い》かんなどとほのめかすそうだ――なあ鼻子そうだな」
「ほのめかすどころじゃないんです。あんな奴の娘を貰う馬鹿がどこの国にあるものか、寒月君決して貰っちゃいかんよって云うんです」
「あんな奴とは何だ失敬な、そんな乱暴な事を云ったのか」
「云ったどころじゃありません、ちゃんと車屋の神さんが知らせに来てくれたんです」
「鈴木君どうだい、御聞の通りの次第さ、随分厄介だろうが?」
「困りますね、ほかの事と違って、こう云う事には他人が妄《みだ》りに容喙《ようかい》するべきはずの者ではありませんからな。そのくらいな事はいかな苦沙弥でも心得ているはずですが。一体どうした訳なんでしょう」
「それでの、君は学生時代から苦沙弥と同宿をしていて、今はとにかく、昔は親密な間柄であったそうだから御依頼するのだが、君当人に逢ってな、よく利害を諭《さと》して見てくれんか。何か怒《おこ》っているかも知れんが、怒るのは向《むこう》が悪《わ》るいからで、先方がおとなしくしてさえいれば一身上の便宜も充分計ってやるし、気に障《さ》わるような事もやめてやる。しかし向が向ならこっちもこっちと云う気になるからな――つまりそんな我《が》を張るのは当人の損だからな」
「ええ全くおっしゃる通り愚《ぐ》な抵抗をするのは本人の損になるばかりで何の益もない事ですから、善く申し聞けましょう」
「それから娘はいろいろと申し込もある事だから、必ず水島にやると極《き》める訳にも行かんが、だんだん聞いて見ると学問も人物も悪くもないようだから、もし当人が勉強して近い内に博士にでもなったらあるいはもらう事が出来るかも知れんくらいはそれとなくほのめかしても構わん」
「そう云ってやったら当人も励《はげ》みになって勉強する事でしょう。宜《よろ》しゅうございます」
「それから、あの妙な事だが――水島にも似合わん事だと思うが、あの変物《へんぶつ》の苦沙弥を先生先生と云って苦沙弥の云う事は大抵聞く様子だから困る。なにそりゃ何も水島に限る訳では無論ないのだから苦沙弥が何と云って邪魔をしようと、わしの方は別に差支《さしつか》えもせんが……」
「水島さんが可哀そうですからね」と鼻子夫人が口を出す。
「水島と云う人には逢った事もございませんが、とにかくこちらと御縁組が出来れば生涯《しょうがい》の幸福で、本人は無論異存はないのでしょう」
「ええ水島さんは貰いたがっているんですが、苦沙弥だの迷亭だのって変り者が何だとか、かんだとか云うものですから」
「そりゃ、善くない事で、相当の教育のあるものにも似合わん所作《しょさ》ですな。よく私が苦沙弥の所へ参って談じましょう」
「ああ、どうか、御面倒でも、一つ願いたい。それから実は水島の事も苦沙弥が一番|詳《くわ》しいのだがせんだって妻《さい》が行った時は今の始末で碌々《ろくろく》聞く事も出来なかった訳だから、君から今一応本人の性行学才等をよく聞いて貰いたいて」
「かしこまりました。今日は土曜ですからこれから廻ったら、もう帰っておりましょう。近頃はどこに住んでおりますか知らん」
「ここの前を右へ突き当って、左へ一丁ばかり行くと崩れかかった黒塀のあるうちです」と鼻子が教える。
「それじゃ、つい近所ですな。訳はありません。帰りにちょっと寄って見ましょう。なあに、大体分りましょう標札《ひょうさつ》を見れば」
「標札はあるときと、ないときとありますよ。名刺を御饌粒《ごぜんつ
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