いましたろう」と御客さんは鼻子夫人の方を向く。
「困るの、困らないのってあなた、私《わた》しゃこの年になるまで人のうちへ行って、あんな不取扱《ふとりあつかい》を受けた事はありゃしません」と鼻子は例によって鼻嵐を吹く。
「何か無礼な事でも申しましたか、昔《むか》しから頑固《がんこ》な性分で――何しろ十年一日のごとくリードル専門の教師をしているのでも大体御分りになりましょう」と御客さんは体《てい》よく調子を合せている。
「いや御話しにもならんくらいで、妻《さい》が何か聞くとまるで剣もほろろの挨拶だそうで……」
「それは怪《け》しからん訳で――一体少し学問をしているととかく慢心が萌《きざ》すもので、その上貧乏をすると負け惜しみが出ますから――いえ世の中には随分無法な奴がおりますよ。自分の働きのないのにゃ気が付かないで、無暗《むやみ》に財産のあるものに喰って掛るなんてえのが――まるで彼等の財産でも捲《ま》き上げたような気分ですから驚きますよ、あははは」と御客さんは大恐悦の体《てい》である。
「いや、まことに言語同断《ごんごどうだん》で、ああ云うのは必竟《ひっきょう》世間見ずの我儘《わがまま》から起るのだから、ちっと懲《こ》らしめのためにいじめてやるが好かろうと思って、少し当ってやったよ」
「なるほどそれでは大分《だいぶ》答えましたろう、全く本人のためにもなる事ですから」と御客さんはいかなる当り方[#「当り方」に傍点]か承《うけたまわ》らぬ先からすでに金田君に同意している。
「ところが鈴木さん、まあなんて頑固な男なんでしょう。学校へ出ても福地《ふくち》さんや、津木《つき》さんには口も利《き》かないんだそうです。恐れ入って黙っているのかと思ったらこの間は罪もない、宅《たく》の書生をステッキを持って追っ懸けたってんです――三十|面《づら》さげて、よく、まあ、そんな馬鹿な真似が出来たもんじゃありませんか、全くやけ[#「やけ」に傍点]で少し気が変になってるんですよ」
「へえどうしてまたそんな乱暴な事をやったんで……」とこれには、さすがの御客さんも少し不審を起したと見える。
「なあに、ただあの男の前を何とか云って通ったんだそうです、すると、いきなり、ステッキを持って跣足《はだし》で飛び出して来たんだそうです。よしんば、ちっとやそっと、何か云ったって小供じゃありませんか、髯面《ひげづら》の大僧《おおぞう》の癖にしかも教師じゃありませんか」
「さよう教師ですからな」と御客さんが云うと、金田君も「教師だからな」と云う。教師たる以上はいかなる侮辱を受けても木像のようにおとなしくしておらねばならぬとはこの三人の期せずして一致した論点と見える。
「それに、あの迷亭って男はよっぽどな酔興人《すいきょうじん》ですね。役にも立たない嘘《うそ》八百を並べ立てて。私《わた》しゃあんな変梃《へんてこ》な人にゃ初めて逢いましたよ」
「ああ迷亭ですか、あいかわらず法螺《ほら》を吹くと見えますね。やはり苦沙弥の所で御逢いになったんですか。あれに掛っちゃたまりません。あれも昔《むか》し自炊の仲間でしたがあんまり人を馬鹿にするものですから能《よ》く喧嘩をしましたよ」
「誰だって怒りまさあね、あんなじゃ。そりゃ嘘をつくのも宜《よ》うござんしょうさ、ね、義理が悪るいとか、ばつを合せなくっちゃあならないとか――そんな時には誰しも心にない事を云うもんでさあ。しかしあの男のは吐《つ》かなくってすむのに矢鱈《やたら》に吐くんだから始末に了《お》えないじゃありませんか。何が欲しくって、あんな出鱈目《でたらめ》を――よくまあ、しらじらしく云えると思いますよ」
「ごもっともで、全く道楽からくる嘘だから困ります」
「せっかくあなた真面目に聞きに行った水島の事も滅茶滅茶《めちゃめちゃ》になってしまいました。私《わたし》ゃ剛腹《ごうはら》で忌々《いまいま》しくって――それでも義理は義理でさあ、人のうちへ物を聞きに行って知らん顔の半兵衛もあんまりですから、後《あと》で車夫にビールを一ダース持たせてやったんです。ところがあなたどうでしょう。こんなものを受取る理由がない、持って帰れって云うんだそうで。いえ御礼だから、どうか御取り下さいって車夫が云ったら――悪《に》くいじゃあありませんか、俺はジャムは毎日|舐《な》めるがビールのような苦《にが》い者は飲んだ事がないって、ふいと奥へ這入《はい》ってしまったって――言い草に事を欠いて、まあどうでしょう、失礼じゃありませんか」
「そりゃ、ひどい」と御客さんも今度は本気に苛《ひど》いと感じたらしい。
「そこで今日わざわざ君を招いたのだがね」としばらく途切れて金田君の声が聞える。「そんな馬鹿者は陰から、からかってさえいればすむようなものの、少々それでも困る事があるじゃて…
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