今戸焼の狸というな何だい」と迷亭が不思議そうに主人に聞く。「何だか分らん」と主人が答える。「なかなか振《ふる》っていますな」と寒月君が批評を加える。迷亭は何を思い出したか急に立ち上って「吾輩は年来美学上の見地からこの鼻について研究した事がございますから、その一斑《いっぱん》を披瀝《ひれき》して、御両君の清聴を煩《わずら》わしたいと思います」と演舌の真似をやる。主人はあまりの突然にぼんやりして無言のまま迷亭を見ている。寒月は「是非|承《うけたまわ》りたいものです」と小声で云う。「いろいろ調べて見ましたが鼻の起源はどうも確《しか》と分りません。第一の不審は、もしこれを実用上の道具と仮定すれば穴が二つでたくさんである。何もこんなに横風《おうふう》に真中から突き出して見る必用がないのである。ところがどうしてだんだん御覧のごとく斯様《かよう》にせり出して参ったか」と自分の鼻を抓《つま》んで見せる。「あんまりせり出してもおらんじゃないか」と主人は御世辞のないところを云う。「とにかく引っ込んではおりませんからな。ただ二個の孔《あな》が併《なら》んでいる状体と混同なすっては、誤解を生ずるに至るかも計られませんから、予《あらかじ》め御注意をしておきます。――で愚見によりますと鼻の発達は吾々人間が鼻汁《はな》をかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したものでございます」「佯《いつわ》りのない愚見だ」とまた主人が寸評を挿入《そうにゅう》する。「御承知の通り鼻汁《はな》をかむ時は、是非鼻を抓みます、鼻を抓んで、ことにこの局部だけに刺激を与えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に応ずるがため他に比例して不相当な発達を致します。皮も自然堅くなります、肉も次第に硬《かた》くなります。ついに凝《こ》って骨となります」「それは少し――そう自由に肉が骨に一足飛に変化は出来ますまい」と理学士だけあって寒月君が抗議を申し込む。迷亭は何喰わぬ顔で陳《の》べ続ける。「いや御不審はごもっともですが論より証拠この通り骨があるから仕方がありません。すでに骨が出来る。骨は出来ても鼻汁《はな》は出ますな。出ればかまずにはいられません。この作用で骨の左右が削《けず》り取られて細い高い隆起と変化して参ります――実に恐ろしい作用です。点滴《てんてき》の石を穿《うが》つがごとく、賓頭顱《びんずる》の頭が自《おのず》から光明を放つがごとく、不思議薫《ふしぎくん》不思議臭《ふしぎしゅう》の喩《たとえ》のごとく、斯様《かよう》に鼻筋が通って堅くなります。「それでも君のなんぞ、ぶくぶくだぜ」「演者自身の局部は回護《かいご》の恐れがありますから、わざと論じません。かの金田の御母堂の持たせらるる鼻のごときは、もっとも発達せるもっとも偉大なる天下の珍品として御両君に紹介しておきたいと思います」寒月君は思わずヒヤヤヤと云う。「しかし物も極度に達しますと偉観には相違ございませんが何となく怖《おそろ》しくて近づき難いものであります。あの鼻梁《びりょう》などは素晴しいには違いございませんが、少々|峻嶮《しゅんけん》過ぎるかと思われます。古人のうちにてもソクラチス、ゴールドスミスもしくはサッカレーの鼻などは構造の上から云うと随分申し分はございましょうがその申し分のあるところに愛嬌《あいきょう》がございます。鼻高きが故に貴《たっと》からず、奇《きtなるがために貴しとはこの故でもございましょうか。下世話《げせわ》にも鼻より団子と申しますれば美的価値から申しますとまず迷亭くらいのところが適当かと存じます」寒月と主人は「フフフフ」と笑い出す。迷亭自身も愉快そうに笑う。「さてただ今《いま》まで弁じましたのは――」「先生弁じました[#「弁じました」に傍点]は少し講釈師のようで下品ですから、よしていただきましょう」と寒月君は先日の復讐《ふくしゅう》をやる。「さようしからば顔を洗って出直しましょうかな。――ええ――これから鼻と顔の権衡《けんこう》に一言《いちごん》論及したいと思います。他に関係なく単独に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻――鞍馬山《くらまやま》で展覧会があっても恐らく一等賞だろうと思われるくらいな鼻を所有していらせられますが、悲しいかなあれは眼、口、その他の諸先生と何等の相談もなく出来上った鼻であります。ジュリアス・シーザーの鼻は大したものに相違ございません。しかしシーザーの鼻を鋏《はさみ》でちょん切って、当家の猫の顔へ安置したらどんな者でございましょうか。喩《たと》えにも猫の額《ひたい》と云うくらいな地面へ、英雄の鼻柱が突兀《とっこつ》として聳《そび》えたら、碁盤の上へ奈良の大仏を据《す》え付けたようなもので、少しく比例を失するの極、その
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