美的価値を落す事だろうと思います。御母堂の鼻はシーザーのそれのごとく、正《まさ》しく英姿颯爽《えいしさっそう》たる隆起に相違ございません。しかしその周囲を囲繞《いにょう》する顔面的条件は如何《いかが》な者でありましょう。無論当家の猫のごとく劣等ではない。しかし癲癇病《てんかんや》みの御かめ[#「御かめ」に傍点]のごとく眉《まゆ》の根に八字を刻んで、細い眼を釣るし上げらるるのは事実であります。諸君、この顔にしてこの鼻ありと嘆ぜざるを得んではありませんか」迷亭の言葉が少し途切れる途端《とたん》、裏の方で「まだ鼻の話しをしているんだよ。何てえ剛突《ごうつ》く張《ばり》だろう」と云う声が聞える。「車屋の神さんだ」と主人が迷亭に教えてやる。迷亭はまたやり初める。「計らざる裏手にあたって、新たに異性の傍聴者のある事を発見したのは演者の深く名誉と思うところであります。ことに宛転《えんてん》たる嬌音《きょうおん》をもって、乾燥なる講筵《こうえん》に一点の艶味《えんみ》を添えられたのは実に望外の幸福であります。なるべく通俗的に引き直して佳人淑女《かじんしゅくじょ》の眷顧《けんこ》に背《そむ》かざらん事を期する訳でありますが、これからは少々力学上の問題に立ち入りますので、勢《いきおい》御婦人方には御分りにくいかも知れません、どうか御辛防《ごしんぼう》を願います」寒月君は力学と云う語を聞いてまたにやにやする。「私の証拠立てようとするのは、この鼻とこの顔は到底調和しない。ツァイシングの黄金律[#「黄金律」に傍点]を失していると云う事なんで、それを厳格に力学上の公式から演繹《えんえき》して御覧に入れようと云うのであります。まずHを鼻の高さとします。αは鼻と顔の平面の交叉より生ずる角度であります。Wは無論鼻の重量と御承知下さい。どうです大抵お分りになりましたか。……」「分るものか」と主人が云う。「寒月君はどうだい」「私にもちと分りかねますな」「そりゃ困ったな。苦沙弥《くしゃみ》はとにかく、君は理学士だから分るだろうと思ったのに。この式が演説の首脳なんだからこれを略しては今までやった甲斐《かい》がないのだが――まあ仕方がない。公式は略して結論だけ話そう」「結論があるか」と主人が不思議そうに聞く。「当り前さ結論のない演舌は、デザートのない西洋料理のようなものだ、――いいか両君|能《よ》く聞き給え、これからが結論だぜ。――さて以上の公式にウィルヒョウ、ワイスマン諸家の説を参酌して考えて見ますと、先天的形体の遺伝は無論の事許さねばなりません。またこの形体に追陪《ついばい》して起る心意的状況は、たとい後天性は遺伝するものにあらずとの有力なる説あるにも関せず、ある程度までは必然の結果と認めねばなりません。従ってかくのごとく身分に不似合なる鼻の持主の生んだ子には、その鼻にも何か異状がある事と察せられます。寒月君などは、まだ年が御若いから金田令嬢の鼻の構造において特別の異状を認められんかも知れませんが、かかる遺伝は潜伏期の長いものでありますから、いつ何時《なんどき》気候の劇変と共に、急に発達して御母堂のそれのごとく、咄嗟《とっさ》の間《かん》に膨脹《ぼうちょう》するかも知れません、それ故にこの御婚儀は、迷亭の学理的論証によりますと、今の中御断念になった方が安全かと思われます、これには当家の御主人は無論の事、そこに寝ておらるる猫又殿《ねこまたどの》にも御異存は無かろうと存じます」主人はようよう起き返って「そりゃ無論さ。あんなものの娘を誰が痰、ものか。寒月君もらっちゃいかんよ」と大変熱心に主張する。吾輩もいささか賛成の意を表するためににゃーにゃーと二声ばかり鳴いて見せる。寒月君は別段騒いだ様子もなく「先生方の御意向がそうなら、私は断念してもいいんですが、もし当人がそれを気にして病気にでもなったら罪ですから――」「ハハハハハ艶罪《えんざい》と云う訳《わけ》だ」主人だけは大《おおい》にむきになって「そんな馬鹿があるものか、あいつの娘なら碌《ろく》な者でないに極《きま》ってらあ。初めて人のうちへ来ておれをやり込めに掛った奴だ。傲慢《ごうまん》な奴だ」と独《ひと》りでぷんぷんする。するとまた垣根のそばで三四人が「ワハハハハハ」と云う声がする。一人が「高慢ちきな唐変木《とうへんぼく》だ」と云うと一人が「もっと大きな家《うち》へ這入《はい》りてえだろう」と云う。また一人が「御気の毒だが、いくら威張ったって蔭弁慶《かげべんけい》だ」と大きな声をする。主人は椽側《えんがわ》へ出て負けないような声で「やかましい、何だわざわざそんな塀《へい》の下へ来て」と怒鳴《どな》る。「ワハハハハハサヴェジ・チーだ、サヴェジ・チーだ」と口々に罵《のの》しる。主人は大《おおい》に逆鱗《げきりん》の体《てい》で
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