《はい》り込んだような心持ちがする。探険中は、ほかの事に気を奪われて部屋の装飾、襖《ふすま》、障子《しょうじ》の具合などには眼も留らなかったが、わが住居《すまい》の下等なるを感ずると同時に彼《か》のいわゆる月並《つきなみ》が恋しくなる。教師よりもやはり実業家がえらいように思われる。吾輩も少し変だと思って、例の尻尾《しっぽ》に伺いを立てて見たら、その通りその通りと尻尾の先から御託宣《ごたくせん》があった。座敷へ這入《はい》って見ると驚いたのは迷亭先生まだ帰らない、巻煙草《まきたばこ》の吸い殻を蜂の巣のごとく火鉢の中へ突き立てて、大胡坐《おおあぐら》で何か話し立てている。いつの間《ま》にか寒月君さえ来ている。主人は手枕をして天井の雨洩《あまもり》を余念もなく眺めている。あいかわらず太平の逸民の会合である。
「寒月君、君の事を譫語《うわごと》にまで言った婦人の名は、当時秘密であったようだが、もう話しても善かろう」と迷亭がからかい出す。「御話しをしても、私だけに関する事なら差支《さしつか》えないんですが、先方の迷惑になる事ですから」「まだ駄目かなあ」「それに○○博士夫人に約束をしてしまったもんですから」「他言をしないと云う約束かね」「ええ」と寒月君は例のごとく羽織の紐《ひも》をひねくる。その紐は売品にあるまじき紫色である。「その紐の色は、ちと天保調《てんぽうちょう》だな」と主人が寝ながら云う。主人は金田事件などには無頓着である。「そうさ、到底《とうてい》日露戦争時代のものではないな。陣笠《じんがさ》に立葵《たちあおい》の紋の付いたぶっ割《さ》き羽織でも着なくっちゃ納まりの付かない紐だ。織田信長が聟入《むこいり》をするとき頭の髪を茶筌《ちゃせん》に結《い》ったと云うがその節用いたのは、たしかそんな紐だよ」と迷亭の文句はあいかわらず長い。「実際これは爺《じじい》が長州征伐の時に用いたのです」と寒月君は真面目である。「もういい加減に博物館へでも献納してはどうだ。首縊りの力学[#「首縊りの力学」に傍点]の演者、理学士水島寒月君ともあろうものが、売れ残りの旗本のような出《い》で立《たち》をするのはちと体面に関する訳だから」「御忠告の通りに致してもいいのですが、この紐が大変よく似合うと云ってくれる人もありますので――」「誰だい、そんな趣味のない事を云うのは」と主人は寝返りを打ちながら大きな声を出す。「それは御存じの方なんじゃないんで――」「御存じでなくてもいいや、一体誰だい」「去る女性《にょしょう》なんです」「ハハハハハよほど茶人だなあ、当てて見ようか、やはり隅田川の底から君の名を呼んだ女なんだろう、その羽織を着てもう一返|御駄仏《おだぶつ》を極《き》め込んじゃどうだい」と迷亭が横合から飛び出す。「へへへへへもう水底から呼んではおりません。ここから乾《いぬい》の方角にあたる清浄《しょうじょう》な世界で……」「あんまり清浄でもなさそうだ、毒々しい鼻だぜ」「へえ?」と寒月は不審な顔をする。「向う横丁の鼻がさっき押しかけて来たんだよ、ここへ、実に僕等二人は驚いたよ、ねえ苦沙弥君」「うむ」と主人は寝ながら茶を飲む。「鼻って誰の事です」「君の親愛なる久遠《くおん》の女性《にょしょう》の御母堂様だ」「へえー」「金田の妻《さい》という女が君の魔?キきに来たよ」と主人が真面目に説明してやる。驚くか、嬉しがるか、恥ずかしがるかと寒月君の様子を窺《うかが》って見ると別段の事もない。例の通り静かな調子で「どうか私に、あの娘を貰ってくれと云う依頼なんでしょう」と、また紫の紐をひねくる。「ところが大違さ。その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有|主《ぬし》でね……」迷亭が半《なか》ば言い懸けると、主人が「おい君、僕はさっきから、あの鼻について俳体詩《はいたいし》を考えているんだがね」と木に竹を接《つ》いだような事を云う。隣の室《へや》で妻君がくすくす笑い出す。「随分君も呑気《のんき》だなあ出来たのかい」「少し出来た。第一句がこの顔に鼻祭り[#「この顔に鼻祭り」に傍点]と云うのだ」「それから?」「次がこの鼻に神酒供え[#「この鼻に神酒供え」に傍点]というのさ」「次の句は?」「まだそれぎりしか出来ておらん」「面白いですな」と寒月君がにやにや笑う。「次へ穴二つ幽かなり[#「穴二つ幽かなり」に傍点]と付けちゃどうだ」と迷亭はすぐ出来る。すると寒月が「奥深く毛も見えず[#「奥深く毛も見えず」に傍点]はいけますまいか」と各々《おのおの》出鱈目《でたらめ》を並べていると、垣根に近く、往来で「今戸焼《いまどやき》の狸《たぬき》今戸焼の狸」と四五人わいわい云う声がする。主人も迷亭もちょっと驚ろいて表の方を、垣の隙《すき》からすかして見ると「ワハハハハハ」と笑う声がして遠くへ散る足の音がする。「
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