声で話している。その声が鼻子とよく似ているところをもって推《お》すと、これが即ち当家の令嬢寒月君をして未遂入水《みすいじゅすい》をあえてせしめたる代物《しろもの》だろう。惜哉《おしいかな》障子越しで玉の御姿《おんすがた》を拝する事が出来ない。従って顔の真中に大きな鼻を祭り込んでいるか、どうだか受合えない。しかし談話の模様から鼻息の荒いところなどを綜合《そうごう》して考えて見ると、満更《まんざら》人の注意を惹《ひ》かぬ獅鼻《ししばな》とも思われない。女はしきりに喋舌《しゃべ》っているが相手の声が少しも聞えないのは、噂《うわさ》にきく電話というものであろう。「御前は大和《やまと》かい。明日《あした》ね、行くんだからね、鶉《うずら》の三を取っておいておくれ、いいかえ――分ったかい――なに分らない? おやいやだ。鶉の三を取るんだよ。――なんだって、――取れない? 取れないはずはない、とるんだよ――へへへへへ御冗談《ごじょうだん》をだって――何が御冗談なんだよ――いやに人をおひゃらかすよ。全体御前は誰だい。長吉《ちょうきち》だ? 長吉なんぞじゃ訳が分らない。お神さんに電話口へ出ろって御云いな――なに? 私《わたく》しで何でも弁じます?――お前は失敬だよ。妾《あた》しを誰だか知ってるのかい。金田だよ。――へへへへへ善く存じておりますだって。ほんとに馬鹿だよこの人あ。――金田だってえばさ。――なに?――毎度|御贔屓《ごひいき》にあずかりましてありがとうございます?――何がありがたいんだね。御礼なんか聞きたかあないやね――おやまた笑ってるよ。お前はよっぽど愚物《ぐぶつ》だね。――仰せの通りだって?――あんまり人を馬鹿にすると電話を切ってしまうよ。いいのかい。困らないのかよ――黙ってちゃ分らないじゃないか、何とか御云いなさいな」電話は長吉の方から切ったものか何の返事もないらしい。令嬢は癇癪《かんしゃく》を起してやけにベル[#「ベル」に傍点]をジャラジャラと廻す。足元で狆《ちん》が驚ろいて急に吠え出す。これは迂濶《うかつ》に出来ないと、急に飛び下りて椽《えん》の下へもぐり込む。
折柄《おりから》廊下を近《ちかづ》く足音がして障子を開ける音がする。誰か来たなと一生懸命に聞いていると「御嬢様、旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます」と小間使らしい声がする。「知らないよ」と令嬢は剣突《けんつく》を食わせる。「ちょっと用があるから嬢《じょう》を呼んで来いとおっしゃいました」「うるさいね、知らないてば」と令嬢は第二の剣突を食わせる。「……水島寒月さんの事で御用があるんだそうでございます」と小間使は気を利《き》かして機嫌を直そうとする。「寒月でも、水月でも知らないんだよ――大嫌いだわ、糸瓜《へちま》が戸迷《とまど》いをしたような顔をして」第三の剣突は、憐れなる寒月君が、留守中に頂戴する。「おや御前いつ束髪《そくはつ》に結《い》ったの」小間使はほっと一息ついて「今日《こんにち》」となるべく単簡《たんかん》な挨拶をする。「生意気だねえ、小間使の癖に」と第四の剣突を別方面から食わす。「そうして新しい半襟《はんえり》を掛けたじゃないか」「へえ、せんだって御嬢様からいただきましたので、結構過ぎて勿体《もったい》ないと思って行李《こうり》の中へしまっておきましたが、今までのがあまり汚《よご》れましたからかけ易《か》えました」「いつ、そんなものを上げた事があるの」「この御正月、白木屋へいらっしゃいまして、御求め遊ばしたので――鶯茶《うぐいすちゃ》へ相撲《すもう》の番附《ばんづけ》を染め出したのでございます。妾《あた》しには地味過ぎていやだから御前に上げようとおっしゃった、あれでございます」「あらいやだ。善く似合うのね。にくらしいわ」「恐れ入ります」「褒《ほ》めたんじゃない。にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによく似合うものをなぜだまって貰ったんだい」「へえ」「御前にさえ、そのくらい似合うなら、妾《あた》しにだっておかしい事あないだろうじゃないか」「きっとよく御似合い遊ばします」「似あうのが分ってる癖になぜ黙っているんだい。そうしてすまして掛けているんだよ、人の悪い」剣突《けんつく》は留めどもなく連発される。このさき、事局はどう発展するかと謹聴している時、向うの座敷で「富子や、富子や」と大きな声で金田君が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむを得ず「はい」と電話室を出て行く。吾輩より少し大きな狆《ちん》が顔の中心に眼と口を引き集めたような面《かお》をして付いて行く。吾輩は例の忍び足で再び勝手から往来へ出て、急いで主人の家に帰る。T険はまず十二分の成績《せいせき》である。
帰って見ると、奇麗な家《うち》から急に汚ない所へ移ったので、何だか日当りの善い山の上から薄黒い洞窟《どうくつ》の中へ入
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