したが、まてしばし、ここが肝心《かんじん》のところだ。滅多《めった》な事をしては失敗する。まあよそうと、際《きわ》どいところで思い留まりました」
「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一梃でなかなか人を引っ張るじゃないか」
「引っ張る訳じゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません」
「なぜ」
「なぜって、まだ宵《よい》の口で人が大勢通るんですもの」
「構わんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君はよっぽど妙な男だ」と主人はぷんぷんしている。
「ただの人なら千が二千でも構いませんがね、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って徘徊《はいかい》しているんだから容易に手を出せませんよ。中には沈澱党《ちんでんとう》などと号して、いつまでもクラスの底に溜まって喜んでるのがありますからね。そんなのに限って柔道は強いのですよ。滅多《めった》にヴァイオリンなどに手出しは出来ません。どんな目に逢《あ》うかわかりません。私だってヴァイオリンは欲しいに相違ないですけれども、命はこれでも惜しいですからね。ヴァイオリンを弾《ひ》いて殺されるよりも、弾かずに生きてる方が楽ですよ」
「それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と主人が念を押す。
「いえ、買ったのです」
「じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早くかたをつけたらよさそうなものだ」
「えへへへへ、世の中の事はそう、こっちの思うように埒《らち》があくもんじゃありませんよ」と云いながら寒月君は冷然と「朝日」へ火をつけてふかし出した。
 主人は面倒になったと見えて、ついと立って書斎へ這入《はい》ったと思ったら、何だか古ぼけた洋書を一冊持ち出して来て、ごろりと腹這《はらばい》になって読み始めた。独仙君はいつの間《ま》にやら、床の間の前へ退去して、独《ひと》りで碁石を並べて一人相撲《ひとりずもう》をとっている。せっかくの逸話もあまり長くかかるので聴手が一人減り二人減って、残るは芸術に忠実なる東風君と、長い事にかつて辟易《へきえき》した事のない迷亭先生のみとなる。
 長い煙をふうと世の中へ遠慮なく吹き出した寒月君は、やがて前同様《ぜんどうよう》の速度をもって談話をつづける。
「東風君、僕はその時こう思ったね。とうていこりゃ宵の口は駄目だ、と云って真夜中に来れば金善は寝てしまうからなお駄目だ
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