覚えずひやっとした事さえある。怖《こわ》い事だ。当夜主人の頭のなかに起った以上の思想もそんな訳合《わけあい》で幸《さいわい》にも諸君にご報道する事が出来るように相成ったのは吾輩の大《おおい》に栄誉とするところである。但《ただ》し主人は「何が何だか分らなくなった」まで考えてそのあとはぐうぐう寝てしまったのである、あすになれば何をどこまで考えたかまるで忘れてしまうに違ない。向後《こうご》もし主人が気狂《きちがい》について考える事があるとすれば、もう一|返《ぺん》出直して頭から考え始めなければならぬ。そうすると果してこんな径路《けいろ》を取って、こんな風に「何が何だか分らなくなる」かどうだか保証出来ない。しかし何返考え直しても、何条《なんじょう》の径路をとって進もうとも、ついに「何が何だか分らなくなる」だけはたしかである。

        十

「あなた、もう七時ですよ」と襖越《ふすまご》しに細君が声を掛けた。主人は眼がさめているのだか、寝ているのだか、向うむきになったぎり返事もしない。返事をしないのはこの男の癖である。ぜひ何とか口を切らなければならない時はうん[#「うん」に傍点]と云《い》う。このうん[#「うん」に傍点]も容易な事では出てこない。人間も返事がうるさくなるくらい無精《ぶしょう》になると、どことなく趣《おもむき》があるが、こんな人に限って女に好かれた試しがない。現在連れ添う細君ですら、あまり珍重しておらんようだから、その他は推《お》して知るべしと云っても大した間違はなかろう。親兄弟に見離され、あかの他人の傾城《けいせい》に、可愛がらりょうはずがない、とある以上は、細君にさえ持てない主人が、世間一般の淑女に気に入るはずがない。何も異性間に不人望な主人をこの際ことさらに暴露《ばくろ》する必要もないのだが、本人において存外な考え違をして、全く年廻りのせいで細君に好かれないのだなどと理窟をつけていると、迷《まよい》の種であるから、自覚の一助にもなろうかと親切心からちょっと申し添えるまでである。
 言いつけられた時刻に、時刻がきたと注意しても、先方がその注意を無にする以上は、向《むこう》をむいてうん[#「うん」に傍点]さえ発せざる以上は、その曲《きょく》は夫にあって、妻にあらずと論定したる細君は、遅くなっても知りませんよと云う姿勢で箒《ほうき》とはたき[#「はたき」
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