そうするとその個人でない集合体のあなた方の意識の上には今私の講演の内容が明かに入る。と同時に、この講演に来る前あなた方が経験された事、すなわち途中で雨が降り出して着物が濡《ぬ》れたとか、また蒸《む》し暑くて途中が難儀であったとかいう意識は講演の方が心を奪うにつれて、だんだん不明暸《ふめいりょう》不確実になってくる。またこの講演が終って場外に出て涼しい風に吹かれでもすれば、ああ好い心持だという意識に心を専領されてしまって講演の方はピッタリ忘れてしまう。私から云えば全くありがたくない話だが事実だからやむをえないのである。私の講演を行住坐臥《ぎょうじゅうざが》共に覚えていらっしゃいと言っても、心理作用に反した注文なら誰も承知する者はありません。これと同じようにあなた方と云うやはり一箇の団体の意識の内容を検して見るとたとえ一カ月に亘ろうが一年に亘ろうが一カ月には一カ月を括《くく》るべき炳乎《へいこ》たる意識があり、また一年には一年を纏《まと》めるに足る意識があって、それからそれへと順次に消長しているものと私は断定するのであります。吾々も過去を顧《かえり》みて見ると中学時代とか大学時代とか皆特別
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