るからいつでも駄目に終るという事は昔から今日《こんにち》まで人間がどのくらい贅沢になったか考えて見れば分る話である。かく積極消極両方面の競争が激しくなるのが開化の趨勢《すうせい》だとすれば、吾々は長い時日のうちに種々様々の工夫を凝《こら》し智慧《ちえ》を絞《しぼ》ってようやく今日まで発展して来たようなものの、生活の吾人の内生に与える心理的苦痛から論ずれば今も五十年前もまたは百年前も、苦しさ加減の程度は別に変りはないかも知れないと思うのです。それだからしてこのくらい労力を節減する器械が整った今日でも、また活力を自由に使い得る娯楽の途《みち》が備った今日でも生存の苦痛は存外|切《せつ》なものであるいは非常という形容詞を冠らしてもしかるべき程度かも知れない。これほど労力を節減できる時代に生れてもその忝《かたじ》けなさが頭に応《こた》えなかったり、これほど娯楽の種類や範囲が拡大されても全くそのありがたみが分らなかったりする以上は苦痛の上に非常という字を附加しても好いかも知れません。これが開化の産んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります。
 これから日本の開化に移るのですが、はたして一般的
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