い募《つの》ればこれが電車にも変化し自動車または飛行器にも化けなければならなくなるのは自然の数であります。これに反して電車や電話の設備があるにしても是非今日は向うまで歩いて行きたいという道楽心の増長する日も年に二度や三度は起らないとも限りません。好んで身体を使って疲労を求める。吾々が毎日やる散歩という贅沢も要するにこの活力消耗の部類に属する積極的な命の取扱方の一部分なのであります。がこの道楽気の増長した時に幸に行って来いという命令が下ればちょうど好いが、まあたいていはそう旨《うま》くは行かない。云いつかった時は多く歩きたくない時である。だから歩かないで用を足す工夫《くふう》をしなければならない。となると勢い訪問が郵便になり、郵便が電報になり、その電報がまた電話になる理窟《りくつ》です。つまるところは人間生存上の必要上何か仕事をしなければならないのを、なろう事ならしないで用を足してそうして満足に生きていたいというわがままな了簡《りょうけん》、と申しましょうかまたはそうそう身を粉《こ》にしてまで働いて生きているんじゃ割に合わない、馬鹿にするない冗談《じょうだん》じゃねえという発憤の結果が怪
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