おったところへ、俄然《がぜん》外部の圧迫で三十代まで飛びつかなければならなくなったのですから、あたかも天狗《てんぐ》にさらわれた男のように無我夢中で飛びついて行くのです。その経路はほとんど自覚していないくらいのものです。元々開化が甲の波から乙の波へ移るのはすでに甲は飽《あ》いていたたまれないから内部欲求の必要上ずるりと新らしい一波を開展するので甲の波の好所も悪所も酸いも甘いも甞《な》め尽した上にようやく一生面を開いたと云って宜《よろ》しい。したがって従来経験し尽した甲の波には衣を脱いだ蛇《へび》と同様未練もなければ残り惜しい心持もしない。のみならず新たに移った乙の波に揉《も》まれながら毫《ごう》も借り着をして世間体を繕《つくろ》っているという感が起らない。ところが日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せるたびに自分がその中で食客《いそうろう》をして気兼《きがね》をしているような気持になる。新らしい波はとにかく、今しがたようやくの思で脱却した旧《ふる》い波の特質やら真相やらも弁《わきま》えるひまのないうちにもう棄《す》てなければならなくなってしまった。食膳《しょくぜん》に向って皿の数を味い尽すどころか元来どんな御馳走《ごちそう》が出たかハッキリと眼に映じない前にもう膳を引いて新らしいのを並べられたと同じ事であります。こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐《いだ》かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです、宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。自分はまだ煙草《たばこ》を喫《す》っても碌《ろく》に味さえ分らない子供の癖に、煙草を喫ってさも旨《うま》そうな風をしたら生意気でしょう。それをあえてしなければ立ち行かない日本人はずいぶん悲酸《ひさん》な国民と云わなければならない。開化の名は下せないかも知れないが、西洋人と日本人の社交を見てもちょっと気がつくでしょう。西洋人と交際をする以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくともよいと云えばそれまでであるが、情けないかな交際しなければいられないのが日本の現状でありましょう。しかして強いものと交際すれば、どうしても己を棄てて先方の習慣に従わなければならなくなる。我々があの人は肉刺《フォーク》の持ちようも知らないとか、小刀《ナイフ》の持ちようも心得ないとか何とか云って、他を批評して得意なのは、つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より強いからである。我々の方が強ければあっちこっちの真似《まね》をさせて主客の位地《いち》を易《か》えるのは容易の事である。がそう行かないからこっちで先方の真似をする。しかも自然天然に発展してきた風俗を急に変える訳にいかぬから、ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるよりほかに仕方がない。自然と内に醗酵《はっこう》して醸《かも》された礼式でないから取ってつけたようではなはだ見苦しい。これは開化じゃない、開化の一端とも云えないほどの些細《ささい》な事であるが、そういう些細な事に至るまで、我々のやっている事は内発的でない、外発的である。これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相|上滑《うわすべ》りの開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎《つつし》まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚《うぬぼ》れてみても上滑《うわすべ》りと評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止《よ》しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑《の》んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。
それでは子供が背《せな》に負われて大人といっしょに歩くような真似をやめて、じみちに発展の順序を尽して進む事はどうしてもできまいかという相談が出るかも知れない。そういう御相談が出れば私も無い事もないと御答をする。が西洋で百年かかってようやく今日に発展した開化を日本人が十年に年期をつづめて、しかも空虚の譏《そしり》を免《まぬ》かれるように、誰が見ても内発的であると認めるような推移をやろうとすればこれまた由々しき結果に陥《おちい》るのであります。百年の経験を十年で上滑《うわすべ》りもせずやりとげようとするならば年限が十分一に縮《ちぢ》まるだけわが活力は十倍に増さなければならんのは算術の初歩を心得たものさえ容易《たやす》く首肯するところである。これは学問を例に御話をするのが一番早分りである。西洋の新らしい説などを生噛《なまかじ》りにして法螺《ほら》を吹くのは論外として、本当に自
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