分が研究を積んで甲の説から乙の説に移りまた乙から丙に進んで、毫《ごう》も流行を追うの陋態《ろうたい》なく、またことさらに新奇を衒《てら》うの虚栄心なく、全く自然の順序階級を内発的に経て、しかも彼ら西洋人が百年もかかってようやく到着し得た分化の極端に、我々が維新後四五十年の教育の力で達したと仮定する。体力脳力共に吾らよりも旺盛《おうせい》な西洋人が百年の歳月を費したものを、いかに先駆の困難を勘定《かんじょう》に入れないにしたところでわずかその半《なかば》に足らぬ歳月で明々地に通過し了《おわ》るとしたならば吾人はこの驚くべき知識の収穫を誇り得ると同時に、一敗また起《た》つ能《あた》わざるの神経衰弱に罹《かか》って、気息奄々《きそくえんえん》として今や路傍に呻吟《しんぎん》しつつあるは必然の結果としてまさに起るべき現象でありましょう。現に少し落ちついて考えてみると、大学の教授を十年間一生懸命にやったら、たいていの者は神経衰弱に罹《かか》りがちじゃないでしょうか。ピンピンしているのは、皆|嘘《うそ》の学者だと申しては語弊があるが、まあどちらかと云えば神経衰弱に罹る方が当り前のように思われます。学者を例に引いたのは単に分りやすいためで、理窟《りくつ》は開化のどの方面へも応用ができるつもりです。
 すでに開化と云うものがいかに進歩しても、案外その開化の賜《たまもの》として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定《かんじょう》に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである事は前《ぜん》御話しした通りである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊の状況に因《よ》って吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮《うわかわ》を滑って行き、また滑るまいと思って踏張《ふんば》るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐《あわ》れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。私の結論はそれだけに過ぎない。ああなさいとか、こうしなければならぬとか云うのではない。どうすることもできない、実に困ったと嘆息するだけで極めて悲観的の結論であります。こんな結論にはかえって到着しない方が幸であったのでしょう。真と云うものは、知らないうちは知りたいけれども、知ってからはかえってアア知らない方がよかったと思う事が時々あります。モーパサンの小説に、或男が内縁の妻に厭気《いやき》がさしたところから、置手紙か何かして、妻を置き去りにしたまま友人の家へ行って隠れていたという話があります。すると女の方では大変怒ってとうとう男の所在《ありか》を捜し当てて怒鳴《どな》り込《こ》みましたので男は手切金を出して手を切る談判を始めると、女はその金を床《ゆか》の上に叩《たた》きつけて、こんなものが欲しいので来たのではない、もし本当にあなたが私を捨てる気ならば私は死んでしまう、そこにある(三階か四階の)窓から飛下りて死んでしまうと言った。男は平気な顔を装ってどうぞと云わぬばかりに女を窓の方へ誘う所作《しょさ》をした。すると女はいきなり馳《か》けて行って窓から飛下りた。死にはしなかったが生れもつかぬ不具になってしまいました。男もこれほど女の赤心が眼の前へ証拠立てられる以上、普通の軽薄な売女同様の観をなして、女の貞節を今まで疑っていたのを後悔したものと見えて、再びもとの夫婦に立ち帰って、病妻の看護に身を委《ゆだ》ねたというのがモーパサンの小説の筋ですが、男の疑も好い加減な程度で留めておけばこれほどの大事には至らなかったかも知れないが、そうすれば彼の懐疑は一生徹底的に解ける日は来なかったでしょう。またここまで押してみれば女の真心《まごころ》が明かになるにはなるが、取返しのつかない残酷な結果に陥った後から回顧して見れば、やはり真実|懸価《かけね》のない実相は分らなくても好いから、女を片輪にさせずにおきたかったでありましょう。日本の現代開化の真相もこの話と同様で、分らないうちこそ研究もして見たいが、こう露骨にその性質が分って見るとかえって分らない昔の方が幸福であるという気にもなります。とにかく私の解剖した事が本当のところだとすれば我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。外国人に対して乃公《おれ》の国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまり云わないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前《ぜん》申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹《かか》らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよ
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