と分る。実験と云っても機械などは要《い》らない。頭の中がそうなっているのだからただ試《ため》しさえすれば気がつくのです。本を読むにしてもAと云う言葉とBと云う言葉とそれからCという言葉が順々に並んでいればこの三つの言葉を順々に理解して行くのが当り前だからAが明かに頭に映る時はBはまだ意識に上らない。Bが意識の舞台に上り始める時にはもうAの方は薄ぼんやりしてだんだん識域《しきいき》の方に近づいてくる。BからCへ移るときはこれと同じ所作《しょさ》を繰返《くりかえ》すに過ぎないのだから、いくら例を長くしても同じ事であります。これは極《きわ》めて短時間の意識を学者が解剖して吾々に示したものでありますが、この解剖は個人の一分間の意識のみならず、一般社会の集合意識にも、それからまた一日一月もしくは一年|乃至《ないし》十年の間の意識にも応用の利《き》く解剖で、その特色は多人数になったって、長時間に亘《わた》ったって、いっこう変りはない事と私は信じているのであります。例えて見ればあなた方という多人数の団体が今ここで私の講演を聴いておいでになる。聴いていない方もあるかも知れないが、まア聴いているとする。そうするとその個人でない集合体のあなた方の意識の上には今私の講演の内容が明かに入る。と同時に、この講演に来る前あなた方が経験された事、すなわち途中で雨が降り出して着物が濡《ぬ》れたとか、また蒸《む》し暑くて途中が難儀であったとかいう意識は講演の方が心を奪うにつれて、だんだん不明暸《ふめいりょう》不確実になってくる。またこの講演が終って場外に出て涼しい風に吹かれでもすれば、ああ好い心持だという意識に心を専領されてしまって講演の方はピッタリ忘れてしまう。私から云えば全くありがたくない話だが事実だからやむをえないのである。私の講演を行住坐臥《ぎょうじゅうざが》共に覚えていらっしゃいと言っても、心理作用に反した注文なら誰も承知する者はありません。これと同じようにあなた方と云うやはり一箇の団体の意識の内容を検して見るとたとえ一カ月に亘ろうが一年に亘ろうが一カ月には一カ月を括《くく》るべき炳乎《へいこ》たる意識があり、また一年には一年を纏《まと》めるに足る意識があって、それからそれへと順次に消長しているものと私は断定するのであります。吾々も過去を顧《かえり》みて見ると中学時代とか大学時代とか皆特別の名のつく時代でその時代時代の意識が纏《まとま》っております。日本人総体の集合意識は過去四五年前には日露戦争の意識だけになりきっておりました。その後日英同盟の意識で占領された時代もあります。かく推論の結果心理学者の解剖を拡張して集合の意識やまた長時間の意識の上に応用して考えてみますと、人間活力の発展の経路たる開化というものの動くラインもまた波動を描いて弧線を幾個《いくつ》も幾個も繋《つな》ぎ合せて進んで行くと云わなければなりません。無論描かれる波の数は無限無数で、その一波一波の長短も高低も千差万別でありましょうが、やはり甲の波が乙の波を呼出し、乙の波がまた丙《へい》の波を誘い出して順次に推移しなければならない。一言にして云えば開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘《うそ》だと申上げたいのであります。ちょっとした話が私は今ここで演説をしている。するとそれを御聞きになるあなたがたの方から云えば初めの十分間くらいは私が何を主眼に云うかよく分らない、二十分目ぐらいになってようやく筋道がついて、三十分目くらいにはようやく油がのって少しはちょっと面白くなり、四十分目にはまたぼんやりし出し、五十分目には退屈を催し、一時間目には欠伸《あくび》が出る。とそう私の想像通り行くか行かないか分りませんが、もしそうだとするならば、私が無理にここで二時間も三時間もしゃべっては、あなた方の心理作用に反して我《が》を張ると同じ事でけっして成功はできない。なぜかと云えばこの講演がその場合あなた方の自然に逆《さから》った外発的のものになるからであります。いくら咽喉《のど》を絞《しぼ》り声を嗄《か》らして怒鳴《どな》ってみたってあなたがたはもう私の講演の要求の度を経過したのだからいけません。あなた方は講演よりも茶菓子が食いたくなったり酒が飲みたくなったり氷水が欲しくなったりする。その方が内発的なのだから自然の推移で無理のないところなのである。
 これだけ説明しておいて現代日本の開化に後戻をしたらたいてい大丈夫でしょう。日本の開化は自然の波動を描いて甲の波が乙の波を生み乙の波が丙の波を押し出すように内発的に進んでいるかと云うのが当面の問題なのですが残念ながらそう行っていないので困るのです。行っていないと云うのは、先程《さきほど》も申した通り活力節約活力消耗の二大方面においてちょうど複雑の程度二十を有して
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