に幾何学のように定義があってその定義から物を拵《こしら》え出したのでなくって、物があってその物を説明するために定義を作るとなると勢いその物の変化を見越してその意味を含ましたものでなければいわゆる杓子定規《しゃくしじょうぎ》とかでいっこう気の利《き》かない定義になってしまいます。ちょうど汽車がゴーッと馳《か》けて来る、その運動の一瞬間すなわち運動の性質の最も現われ悪《にく》い刹那《せつな》の光景を写真にとって、これが汽車だこれが汽車だと云ってあたかも汽車のすべてを一枚の裏《うち》に写し得たごとく吹聴《ふいちょう》すると一般である。なるほどどこから見ても汽車に違ありますまい。けれども汽車に見逃してはならない運動というものがこの写真のうちには出ていないのだから実際の汽車とはとうてい比較のできないくらい懸絶していると云わなければなりますまい。御存じの琥珀《こはく》と云うものがありましょう。琥珀の中に時々|蠅《はえ》が入ったのがある。透《す》かして見ると蠅に違ありませんが、要するに動きのとれない蠅であります。蠅でないとは言えぬでしょうが活きた蠅とは云えますまい。学者の下す定義にはこの写真の汽車や琥珀の中の蠅に似て鮮《あざや》かに見えるが死んでいると評しなければならないものがある。それで注意を要するというのであります。つまり変化をするものを捉《とら》えて変化を許さぬかのごとくピタリと定義を下す。巡査と云うものは白い服を着てサーベルを下げているものだなどとてんからきめられた日には巡査もやりきれないでしょう。家《うち》へ帰って浴衣《ゆかた》も着換える訳に行かなくなる。この暑いのに剣ばかり下げていなければすまないのは可哀想だ。騎兵とは馬に乗るものである。これも御尤《ごもっとも》には違ないが、いくら騎兵だって年が年中馬に乗りつづけに乗っている訳にも行かないじゃありませんか。少しは下りたいでさア。こう例を挙《あ》げれば際限がないから好加減《いいかげん》に切り上げます。実は開化の定義を下す御約束をしてしゃべっていたところがいつの間《ま》にか開化はそっち退《の》けになってむずかしい定義論に迷い込んではなはだ恐縮です。がこのくらい注意をした上でさて開化とは何者だと纏《まと》めてみたら幾分か学者の陥りやすい弊害を避け得られるしまたその便宜をも受ける事ができるだろうと思うのです。
でいよいよ開化
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