ず》がある。右の肩から左へ斜《はす》に切りつけた刀の痕《あと》が見える。玉を並べた様な鋲《びょう》の一つを半ば潰《つぶ》して、ゴーゴン・メジューサに似た夜叉の耳のあたりを纏《まと》う蛇の頭を叩いて、横に延板の平な地へ微《かす》かな細長い凹《くぼ》みが出来ている。ウィリアムにこの創《きず》の因縁を聞くと何《なん》にも云わぬ。知らぬかと云えば知ると云う。知るかと云えば言い難しと答える。
人に云えぬ盾の由来の裏には、人に云えぬ恋の恨みが潜んでいる。人に云わぬ盾の歴史の中《うち》には世もいらぬ神もいらぬとまで思いつめたる望の綱が繋《つな》がれている。ウィリアムが日毎夜毎に繰り返す心の物語りはこの盾と浅からぬ因果の覊絆《きずな》で結び付けられている。いざという時この盾を執って……望はこれである。心の奥に何者かほのめいて消え難き前世の名残の如きを、白日の下に引き出《いだ》して明ら様に見極むるはこの盾の力である。いずくより吹くとも知らぬ業障《ごうしょう》の風の、隙《すき》多き胸に洩《も》れて目に見えぬ波の、立ちては崩《くず》れ、崩れては立つを浪なき昔、風吹かぬ昔に返すはこの盾の力である。この盾だに
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