アーチの暗き上より、石に響く扉を下して、刎橋《はねばし》を鉄鎖に引けば人の踰《こ》えぬ濠《ほり》である。
 濠を渡せば門も破ろう、門を破れば天主も抜こう、志ある方に道あり、道ある方に向えとルーファスは打ち壊したる扉の隙より、黒金につつめる狼《おおかみ》の顔を会釈もなく突き出す。あとに続けと一人が従えば、尻を追えと又一人が進む。一人二人の後は只我先にと乱れ入る。むくむくと湧く清水に、こまかき砂の浮き上りて一度に漾《ただよ》う如く見ゆる。壁の上よりは、ありとある弓を伏せて蝟《い》の如く寄手の鼻頭《はなさき》に、鉤《かぎ》と曲る鏃《やじり》を集める。空を行く長き箭《や》の、一矢毎に鳴りを起せば数千の鳴りは一と塊りとなって、地上に蠢《うごめ》く黒影の響に和して、時ならぬ物音に、沖の鴎を驚かす。狂えるは鳥のみならず。秋の夕日を受けつ潜《くぐ》りつ、甲《かぶと》の浪|鎧《よろい》の浪が寄せては崩れ、崩れては退《ひ》く。退くときは壁の上櫓の上より、傾く日を海の底へ震い落す程の鬨《とき》を作る。寄するときは甲の浪、鎧の浪の中より、吹き捲くる大風の息の根を一時にとめるべき声を起す。退く浪と寄する浪の間にウィリアムとシーワルドがはたと行き逢う。「生きておるか」とシーワルドが剣で招けば、「死ぬところじゃ」とウィリアムが高く盾を翳す。右に峙《そばだ》つ丸櫓の上より飛び来る矢が戞《かつ》と夜叉の額を掠《かす》めてウィリアムの足の下へ落つる。この時崩れかかる人浪は忽《たちま》ち二人の間を遮《さえぎ》って、鉢金を蔽《おお》う白毛の靡きさえ、暫《しばら》くの間に、旋《めぐ》る渦の中に捲き込まれて見えなくなる。戦は午《ご》を過ぐる二た時余りに起って、五時と六時の間にも未《ま》だ方《かた》付かぬ。一度びは猛《たけ》き心に天主をも屠《ほふ》る勢であった寄手の、何にひるんでか蒼然《そうぜん》たる夜の色と共に城門の外へなだれながら吐き出される。搏《う》つ音の絶えたるは一|時《じ》の間か。暫らくは鳴りも静まる。
 日は暮れ果てて黒き夜の一|寸《すん》の隙間なく人馬を蔽う中に、砕くる波の音が忽ち高く聞える。忽ち聞えるは始めて海の鳴るにあらず、吾が鳴りの暫らく已《や》んで空しき心の迎えたるに過ぎぬ。この浪の音は何里の沖に萌《きざ》してこの磯の遠きに崩るるか、思えば古き響きである。時の幾代を揺がして知られぬ未来に響く。日を捨てず夜を捨てず、二六時中繰り返す真理は永劫《えいごう》無極の響きを伝えて剣打つ音を嘲り、弓引く音を笑う。百と云い千と云う人の叫びの、はかなくて憐《あわれ》むべきを罵《ののし》るときかれる。去れど城を守るものも、城を攻むるものも、おのが叫びの纔《わず》かにやんで、この深き響きを不用意に聞き得たるとき耻《は》ずかしと思えるはなし。ウィリアムは盾に凝る血の痕《あと》を見て「汝われをも呪うか」と剣を以て三たび夜叉の面を叩く。ルーファスは「烏なれば闇にも隠れん月照らぬ間に斬《き》って棄よ」と息捲く。シーワルドばかりは額の奥に嵌《は》め込まれたる如き双の眼《まなこ》を放って高く天主を見詰めたるまま一|言《こと》もいわぬ。
 海より吹く風、海へ吹く風と変りて、砕くる浪と浪の間にも新たに天地の響を添える。塔を繞《めぐ》る音、壁にあたる音の次第に募ると思ううち、城の内にて俄《にわ》かに人の騒ぐ気合《けはい》がする。それが漸々《だんだん》烈しくなる。千里の深きより来《きた》る地震の秒を刻み分を刻んで押し寄せるなと心付けばそれが夜鴉の城の真下で破裂したかと思う響がする。――シーワルドの眉《まゆ》は毛虫を撲《う》ちたるが如く反《そ》り返る。――櫓の窓から黒|烟《けむ》りが吹き出す。夜の中に夜よりも黒き烟りがむくむくと吹き出す。狭き出口を争うが為めか、烟の量は見る間に増して前なるは押され、後《あと》なるは押し、並ぶは互に譲るまじとて同時に溢《あふ》れ出《い》ずる様に見える。吹き募る野分《のわき》は真《ま》ともに烟を砕いて、丸く渦を巻いて迸《ほとばし》る鼻を、元の如く窓へ圧し返そうとする。風に喰い留められた渦は一度になだれて空に流れ込む。暫くすると吹き出す烟りの中に火の粉が交じり出す。それが見る間に殖える。殖えた火の粉は烟|諸共《もろとも》風に捲かれて大空に舞い上る。城を蔽う天の一部が櫓を中心として大なる赤き円を描いて、その円は不規則に海の方《かた》へと動いて行く。火の粉を梨地《なしじ》に点じた蒔絵《まきえ》の、瞬時の断間《たえま》もなく或《あるい》は消え或は輝きて、動いて行く円の内部は一点として活きて動かぬ箇所はない。――「占めた」とシーワルドは手を拍《う》って雀躍《こおどり》する。
 黒烟りを吐き出して、吐き尽したる後は、太き火※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《
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