そめて、舌を打つ。「わが渡り合いしは巨人の中の巨人なり。銅板に砂を塗れる如き顔の中に眼《まなこ》懸りて稲妻《いなずま》を射る。我を見て南方の犬尾を捲《ま》いて死ねと、かの鉄棒を脳天より下す。眼を遮《さえぎ》らぬ空の二つに裂くる響して、鉄の瘤はわが右の肩先を滑《す》べる。繋《つな》ぎ合せて肩を蔽《おお》える鋼鉄《はがね》の延板の、尤《もっと》も外に向えるが二つに折れて肉に入る。吾がうちし太刀先は巨人の盾を斜《ななめ》に斫《き》って戞《かつ》と鳴るのみ。……」ウィリアムは急に眼を転じて盾の方を見る。彼の四世の祖が打ち込んだ刀痕《とうこん》は歴然と残っている。ウィリアムは又読み続ける。「われ巨人を切る事三|度《たび》、三度目にわが太刀は鍔元《つばもと》より三つに折れて巨人の戴く甲の鉢金の、内側に歪《ゆが》むを見たり。巨人の椎《つい》を下すや四たび、四たび目に巨人の足は、血を含む泥を蹴《け》て、木枯の天狗《てんぐ》の杉を倒すが如く、薊《あざみ》の花のゆらぐ中に、落雷も耻《は》じよとばかり※[#「革+堂」、第3水準1−93−80]《どう》と横たわる。横たわりて起きぬ間を、疾《と》くも縫えるわが短刀の光を見よ。吾ながら又なき手柄なり。……」ブラヴォーとウィリアムは小声に云う。「巨人は云う、老牛の夕陽に吼《ほ》ゆるが如き声にて云う。幻影の盾を南方の豎子《じゅし》に付与す、珍重に護持せよと。われ盾を翳《かざ》してその所以《ゆえん》を問うに黙して答えず。強《し》いて聞くとき、彼両手を揚げて北の空を指《ゆびさ》して曰《いわ》く。ワルハラの国オジンの座に近く、火に溶けぬ黒鉄《くろがね》を、氷の如き白炎に鋳たるが幻影の盾なり。……」この時戸口に近く、石よりも堅き廊下の床を踏みならす音がする。ウィリアムは又|起《た》って扉に耳を付けて聴く。足音は部屋の前を通り越して、次第に遠ざかる下から、壁の射返す響のみが朗らかに聞える。何者か暗窖《あんこう》の中へ降りていったのであろう。「この盾何の奇特《きどく》かあると巨人に問えば曰く。盾に願え、願《ねご》うて聴かれざるなし只その身を亡ぼす事あり。人に語るな語るとき盾の霊去る。……汝盾を執って戦に臨めば四囲の鬼神汝を呪うことあり。呪われて後|蓋天《がいてん》蓋地の大歓喜に逢うべし。只盾を伝え受くるものにこの秘密を許すと。南国の人この不祥の具を愛せずと盾を棄てて去らんとすれば、巨人手を振って云う。われ今浄土ワルハラに帰る、幻影の盾を要せず。百年の後南方に赤衣《せきい》の美人あるべし。その歌のこの盾の面《おもて》に触るるとき、汝の児孫盾を抱《いだ》いて抃舞《べんぶ》するものあらんと。……」汝の児孫[#「汝の児孫」に傍点]とはわが事ではないかとウィリアムは疑う。表に足音がして室《へや》の戸の前に留った様である。「巨人は薊の中に斃《たお》れて、薊の中に残れるはこの盾なり」と読み終ってウィリアムが又壁の上の盾を見ると蛇の毛は又|揺《うご》き始める。隙間《すきま》なく縺《もつ》れた中を下へ下へと潜《もぐ》りて盾の裏側まで抜けはせぬかと疑わるる事もあり、又上へ上へともがき出て五寸の円の輪廓《りんかく》だけが盾を離れて浮き出はせぬかと思わるる事もある。下に動くときも上に揺り出す時も同じ様に清水《しみず》が滑《なめら》かな石の間を※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]《めぐ》る時の様な音が出る。只その音が一本々々の毛が鳴って一束の音にかたまって耳朶《じだ》に達するのは以前と異なる事はない。動くものは必ず鳴ると見えるに、蛇の毛は悉く動いているからその音も蛇の毛の数だけはある筈であるが――如何《いか》にも低い。前の世の耳語《ささや》きを奈落《ならく》の底から夢の間に伝える様に聞かれる。ウィリアムは茫然《ぼうぜん》としてこの微音を聞いている。戦《いくさ》も忘れ、盾も忘れ、我身をも忘れ、戸口に人足の留ったも忘れて聞いている。ことことと戸を敲《たた》くものがある。ウィリアムは魔がついた様な顔をして動こうともしない。ことことと再び敲く。ウィリアムは両手に紙片を捧げたまま椅子を離れて立ち上る。夢中に行く人の如く、身を向けて戸口の方《かた》に三歩ばかり近寄る。眼は戸の真中を見ているが瞳孔《どうこう》に写って脳裏に印する影は戸ではあるまい。外の方では気が急《せ》くか、厚い樫《かし》の扉を拳《こぶし》にて会釈なく夜陰に響けと叩く。三度目に敲いた音が、物静かな夜を四方に破ったとき、偶像の如きウィリアムは氷盤を空裏に撃砕する如く一時に吾に返った。紙片を急に懐《ふところ》へかくす。敲く音は益|逼《せま》って絶間なく響く。開けぬかと云う声さえ聞える。
「戸を敲くは誰《た》ぞ」と鉄の栓張《しんばり》をからりと外す。切り岸の様な額の上に、赤黒
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