《まなこ》に聚《あつ》まってくる。あの空とあの雲の間が海で、浪の噛《か》む切立《きった》ち岩の上に巨巌《きょがん》を刻んで地から生えた様なのが夜鴉の城であると、ウィリアムは見えぬ所を想像で描き出す。若《も》しその薄黒く潮風に吹き曝《さら》された角窓の裏《うち》に一人物を画き足したなら死竜《しりょう》は忽《たちま》ち活《い》きて天に騰《のぼ》るのである。天晴《てんせい》に比すべきものは何人《なんびと》であろう、ウィリアムは聞かんでも能《よ》く知っている。
 目の廻る程急がしい用意の為めに、昼の間はそれとなく気が散って浮き立つ事もあるが、初夜過ぎに吾が室に帰って、冷たい臥床《ふしど》の上に六尺一寸の長躯《ちょうく》を投げる時は考え出す。初めてクララに逢ったときは十二三の小供で知らぬ人には口もきかぬ程内気であった。只髪の毛は今の様に金色であった……ウィリアムは又|内懐《うちぶところ》からクララの髪の毛を出して眺める。クララはウィリアムを黒い眼の子、黒い眼の子と云ってからかった。クララの説によると黒い眼の子は意地が悪い、人がよくない、猶太《ユダヤ》人かジプシイでなければ黒い眼色のものはない。ウィリアムは怒って夜鴉の城へはもう来ぬと云ったらクララは泣き出して堪忍《かんにん》してくれと謝した事がある。……二人して城の庭へ出て花を摘んだ事もある。赤い花、黄な花、紫の花――花の名は覚えておらん――色々の花でクララの頭と胸と袖を飾ってクイーンだクイーンだとその前に跪《ひざま》ずいたら、槍を持たない者はナイトでないとクララが笑った。……今は槍もある、ナイトでもある、然しクララの前に跪く機会はもうあるまい。ある時は野へ出て蒲公英《たんぽぽ》の蕊《しべ》を吹きくらをした。花が散ってあとに残る、むく毛を束《つか》ねた様に透明な球をとってふっと吹く。残った種の数でうらないをする。思う事が成るかならぬかと云いながらクララが一吹きふくと種の数が一つ足りないので思う事が成らぬと云う辻《つじ》うらであった。するとクララは急に元気がなくなって俯向《うつむ》いてしまった。何を思って吹いたのかと尋ねたら何でもいいと何時になく邪慳《じゃけん》な返事をした。その日は碌々《ろくろく》口もきかないで塞《ふさ》ぎ込んでいた。……春の野にありとあらゆる蒲公英をむしって息の続づかぬまで吹き飛ばしても思う様な辻占は出ぬ筈だとウィリアムは怒る如くに云う。然しまだ盾と云う頼みがあるからと打消すように添える。……これは互に成人してからの事である。夏を彩《いろ》どる薔薇《ばら》の茂みに二人座をしめて瑠璃《るり》に似た青空の、鼠色に変るまで語り暮した事があった。騎士の恋には四期があると云う事をクララに教えたのはその時だとウィリアムは当時の光景を一度に目の前に浮べる。「第一を躊躇《ちゅうちょ》の時期と名づける、これは女の方でこの恋を斥《しりぞ》けようか、受けようかと思い煩《わずら》う間の名である」といいながらクララの方を見た時に、クララは俯向《うつむ》いて、頬のあたりに微《かす》かなる笑《えみ》を漏《もら》した。「この時期の間には男の方では一言も恋をほのめかすことを許されぬ。只眼にあまる情けと、息に漏るる嘆きとにより、昼は女の傍《かた》えを、夜は女の住居《すまい》の辺りを去らぬ誠によりて、我意中を悟れかしと物言わぬうちに示す」クララはこの時池の向うに据えてある大理石の像を余念なく見ていた。「第二を祈念の時期と云う。男、女の前に伏して懇《ねんご》ろに我が恋|叶《かな》えたまえと願う」クララは顔を背《そむ》けて紅《くれない》の薔薇の花を唇につけて吹く。一弁《ひとひら》は飛んで波なき池の汀《みぎわ》に浮ぶ。一弁は梅鉢の形ちに組んで池を囲える石の欄干に中《あた》りて敷石の上に落ちた。「次に来るは応諾の時期である。誠ありと見抜く男の心を猶も確めん為め女、男に草々《くさぐさ》の課役をかける。剣の力、槍の力で遂ぐべき程の事柄であるは言うまでもない」クララは吾を透す大いなる眼を翻して第四はと問う。「第四の時期を Druerie と呼ぶ。武夫《もののふ》が君の前に額付《ぬかず》いて渝《かわ》らじと誓う如く男、女の膝下《しっか》に跪《ひざま》ずき手を合せて女の手の間に置く。女かたの如く愛の式を返して男に接吻する」クララ遠き代の人に語る如き声にて君が恋は何れの期ぞと問う。思う人の接吻さえ得なばとクララの方に顔を寄せる。クララ頬に紅して手に持てる薔薇の花を吾が耳のあたりに抛《なげう》つ。花びらは雪と乱れて、ゆかしき香りの一群れが二人の足の下に散る。…… Druerie の時期はもう望めないわとウィリアムは六尺一寸の身を挙げてどさと寝返りを打つ。間《けん》にあまる壁を切りて、高く穿《うが》てる細き窓から薄暗き曙光《しょこ
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