古を始めようとしている。今日はそんな気もいっこう起らぬ。あの書生は呑気《のんき》で羨《うらやま》しいと思う。――椿の花片《はなびら》がまた一つ落ちた。
一輪挿《いちりんざし》を持ったまま障子を開《あ》けて椽側《えんがわ》へ出る。花は庭へ棄《す》てた。水もついでにあけた。花活《はないけ》は手に持っている。実は花活もついでに棄てるところであった。花活を持ったまま椽側に立っている。檜《ひのき》がある。塀《へい》がある。向《むこう》に二階がある。乾きかけた庭に雨傘が干《ほ》してある。蛇《じゃ》の目の黒い縁《ふち》に落花《らっか》が二片《ふたひら》貼《へばり》ついている。その他いろいろある。ことごとく無意義にある。みんな器械的である。
小野さんは重い足を引き擦《ず》ってまた部屋のなかへ這入《はい》って来た。坐らずに机の前に立っている。過去の節穴《ふしあな》がすうと開《あ》いて昔の歴史が細長く遠くに見える。暗い。その暗いなかの一点がぱっと燃え出した。動いて来る。小野さんは急に腰を屈《かが》めて手を伸ばすや否や封を切った。
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「拝啓|柳暗花明《りゅうあんかめい》の好時節と相成候処いよいよ御壮健|奉賀《がしたてまつり》候《そうろう》。小生も不相変《あいかわらず》頑強《がんきょう》、小夜《さよ》も息災に候えば、乍憚《はばかりながら》御休神|可被下《くださるべく》候《そうろう》。さて旧臘《きゅうろう》中一寸申上候東京表へ転住の義、其後《そのご》色々の事情にて捗《はか》どりかね候所、此程に至り諸事好都合に埓《らち》あき、いよいよ近日中に断行の運びに至り候はずにつき左様御承知|被下度《くだされたく》候《そうろう》。二十年|前《ぜん》に其地を引き払い候儘、両度の上京に、五六日の逗留《とうりゅう》の外は、全く故郷の消息に疎《うと》く、万事不案内に候えば到着の上は定めて御厄介の事と存候。
「年来住み古《ふ》るしたる住宅は隣家|蔦屋《つたや》にて譲り受け度旨《たきむね》申込《もうしこみ》有之《これあり》、其他にも相談の口はかかり候えども、此方《こちら》に取り極め申候。荷物其他|嵩張《かさば》り候ものは皆当地にて売払い、なるべく手軽に引き移るつもりに御座候。唯小夜所持の琴《こと》一面は本人の希望により、東京迄持ち運び候事に相成候。故《ふる》きを棄てがたき婦女の心情御憐察|可被下《くださるべく》候《そうろう》。
「御承知の通《とおり》小夜は五年|前《ぜん》当地に呼び寄せ候迄、東京にて学校教育を受け候事とて切に転住の速《すみや》かなる事を希望致し居候。同人|行末《ゆくすえ》の義に関しては大略御同意の事と存じ候えば別に不申述《もうしのべず》。追て其地にて御面会の上|篤《とく》と御協議申上度と存候。
「博覧会にて御地は定めて雑沓《ざっとう》の事と存候。出立の節はなるべく急行の夜汽車を撰《えら》みたくと存じ候えども、急行は非常の乗客の由につき、一層《いっそ》途中にて一二泊の上ゆるゆる上京致すやも計りがたく候。時日刻限はいずれ確定次第御報|可致《いたすべく》候《そうろう》。まずは右当用迄|匆々《そうそう》不一」
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読み終った小野さんは、机の前に立ったままである。巻き納めぬ手紙は右の手からだらりと垂れて、清三様……孤堂とかいた端《はじ》が青いカシミヤの机掛の上に波を打って二三段に畳まれている。小野さんは自分の手元から半切れを伝わって机掛の白く染め抜かれているあたりまで順々に見下して行く。見下した眼の行き留《どま》った時、やむを得ず、睛《ひとみ》を転じてロゼッチの詩集を眺《なが》めた。詩集の表紙の上に散った二片《ふたひら》の紅《くれない》も眺めた。紅に誘われて、右の角《かど》に在るべき色硝子の一輪挿も眺めようとした。一輪挿はどこかへ行ってあらぬ。一昨日《おととい》挿した椿《つばき》は影も形もない。うつくしい未来を覗く管《くだ》が無くなった。
小野さんは机の前へ坐った。力なく巻き納める恩人の手紙のなかから妙な臭が立ち上《のぼ》る。一種古ぼけた黴臭《かびくさ》いにおいが上る。過去のにおいである。忘れんとして躊躇《ちゅうちょ》する毛筋の末を引いて、細い縁《えにし》に、絶えるほどにつながるる今と昔を、面《ま》のあたりに結び合わす香《におい》である。
半世の歴史を長き穂の心細きまで逆《さか》しまに尋ぬれば、溯《さかのぼ》るほどに暗澹《あんたん》となる。芽を吹く今の幹なれば、通わぬ脈の枯れ枝《え》の末に、錐《きり》の力の尖《とが》れるを幸《さいわい》と、記憶の命を突き透《とお》すは要なしと云わんよりむしろ無惨《むざん》である。ジェーナスの神は二つの顔に、後《うし》ろをも前をも見る。幸なる小野さんは一つの顔しか持たぬ。背《そびら》を過去に向けた上は、眼に映るは煕々《きき》たる前程のみである。後《うしろ》を向けばひゅうと北風が吹く。この寒い所をやっとの思いで斬り抜けた昨日今日《きのうきょう》、寒い所から、寒いものが追っ懸《か》けて来る。今まではただ忘れればよかった。未来の発展の暖く鮮《あざ》やかなるうちに、己《おの》れを捲《ま》き込んで、一歩でも過去を遠退《とおの》けばそれで済んだ。生きている過去も、死んだ過去のうちに静かに鏤《ちりばめ》られて、動くかとは掛念《けねん》しながらも、まず大丈夫だろうと、その日、その日に立ち退《の》いては、顧みるパノラマの長く連なるだけで、一点も動かぬに胸を撫《な》でていた。ところが、昔しながらとたかを括《くく》って、過去の管《くだ》を今さら覗いて見ると――動くものがある。われは過去を棄てんとしつつあるに、過去はわれに近づいて来る。逼《せま》って来る。静かなる前後と枯れ尽したる左右を乗り超《こ》えて、暗夜《やみよ》を照らす提灯《ちょうちん》の火のごとく揺れて来る、動いてくる。小野さんは部屋の中を廻り始めた。
自然は自然を用い尽さぬ。極《きわ》まらんとする前に何事か起る。単調は自然の敵である。小野さんが部屋の中を廻り始めて半分《はんぷん》と立たぬうちに、障子《しょうじ》から下女の首が出た。
「御客様」と笑いながら云う。なぜ笑うのか要領を得ぬ。御早うと云っては笑い、御帰んなさいと云っては笑い、御飯ですと云っては笑う。人を見て妄《みだ》りに笑うものは必ず人に求むるところのある証拠である。この下女はたしかに小野さんからある報酬を求めている。
小野さんは気のない顔をして下女を見たのみである。下女は失望した。
「通しましょうか」
小野さんは「え、うん」と判然しない返事をする。下女はまた失望した。下女がむやみに笑うのは小野さんに愛嬌《あいきょう》があるからである。愛嬌のない御客は下女から見ると半文《はんもん》の価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。今日《こんにち》まで下女の人望を繋《つな》いだのも全くこの自覚に基《もと》づく。小野さんは下女の人望をさえ妄《みだ》りに落す事を好まぬほどの人物である。
同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事|能《あた》わずと昔《むか》しの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。愛嬌が退《の》いて不安が這入《はい》る。下女は悪《わ》るいところへぶつかった。愛嬌が退いて不安が這入る。愛嬌が附焼刃《つけやきば》で不安が本体だと思うのは偽哲学者である。家主《いえぬし》が這入るについて、愛嬌が示談《じだん》の上、不安に借家を譲り渡したまでである。それにしても小野さんは悪るいところを下女に見られた。
「通してもいいんですか」
「うん、そうさね」
「御留守だって云いましょうか」
「誰だい」
「浅井さん」
「浅井か」
「御留守?」
「そうさね」
「御留守になさいますか」
「どう、しようか知ら」
「どっち、でも」
「逢《あ》おうかな」
「じゃ、通しましょう」
「おい、ちょっと、待った。おい」
「何です」
「ああ、好《い》い。好《よ》し好し」
友達には逢いたい時と、逢いたくない時とある。それが判然すれば何の苦もない。いやなら留守を使えば済む。小野さんは先方の感情を害せぬ限りは留守を使う勇気のある男である。ただ困るのは逢いたくもあり、逢いたくもなくて、前へ行ったり後《うし》ろへ戻ったりして下女にまで馬鹿にされる時である。
往来で人と往き合う事がある。双方でちょっと体《たい》を交《か》わせば、それぎりで御互にもとの通り、あかの他人となる。しかし時によると両方で、同じ右か、同じ左りへ避《よ》ける。これではならぬと反対の側へ出ようと、足元を取り直すとき、向うもこれではならぬと気を換《か》えて反対へ出る。反対と反対が鉢合《はちあわ》せをして、おいしまったと心づいて、また出直すと、同時同刻に向うでも同様に出直してくる。両人は出直そうとしては出遅れ、出遅れては出直そうとして、柱時計の振子《ふりこ》のようにこっち、あっちと迷い続けに迷うてくる。しまいには双方で双方を思い切りの悪《わ》るい野郎だと悪口《わるくち》が云いたくなる。人望のある小野さんは、もう少しで下女に思い切りの悪るい野郎だと云われるところであった。
そこへ浅井君が這入《はい》ってくる。浅井君は京都以来の旧友である。茶の帽子のいささか崩れかかったのを、右の手で圧《お》し潰《つぶ》すように握って、畳の上へ抛《ほう》り出すや否や
「ええ天気だな」と胡坐《あぐら》をかく。小野さんは天気の事を忘れていた。
「いい天気だね」
「博覧会へ行ったか」
「いいや、まだ行かない」
「行って見い、面白いぜ。昨日《きのう》行っての、アイスクリームを食うて来た」
「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
「今度は露西亜《ロシア》料理を食いに行くつもりだ。どうだいっしょに行かんか」
「今日かい」
「うん今日でもいい」
「今日は、少し……」
「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
「そうか、どうも心持ちがわるい」
「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く露西亜《ロシア》料理でも食うて、好うならんと」
「なぜ」
「なぜって、井上の御嬢さんは東京へ来るんだろう」
「そうか」
「そうかって、君の所へは無論通知が来たはずじゃ」
「君の所へは来たかい」
「うん、来た。君の所へは来んのか」
「いえ来た事は来たがね」
「いつ来たか」
「もう少し先刻《さっき》だった」
「いよいよ結婚するんだろう」
「なにそんな事があるものか」
「せんのか、なぜ?」
「なぜって、そこにはだんだん深い事情があるんだがね」
「どんな事情が」
「まあ、それはおって緩《ゆ》っくり話すよ。僕も井上先生には大変世話になったし、僕の力で出来る事は何でも先生のためにする気なんだがね。結婚なんて、そう思う通りに急に出来るものじゃないさ」
「しかし約束があるんだろう」
「それがね、いつか君にも話そう話そうと思っていたんだが、――僕は実に先生には同情しているんだよ」
「そりゃ、そうだろう」
「まあ、先生が出て来たら緩《ゆっ》くり話そうと思うんだね。そう向うだけで一人《ひとり》ぎめにきめていても困るからね」
「どんなに一人できめているんだい」
「きめているらしいんだね、手紙の様子で見ると」
「あの先生も随分|昔堅気《むかしかたぎ》だからな」
「なかなか自分できめた事は動かない。一徹《いってつ》なんだ」
「近頃は家計《くらし》の方も余りよくないんだろう」
「どうかね。そう困りもしまい」
「時に何時《なんじ》かな、君ちょっと時計を見てくれ」
「二時十六分だ」
「二時十六分?――それが例の恩賜の時計か」
「ああ」
「旨《うま》い事をしたなあ。僕も貰って置けばよかった。こう云うものを持っていると世間の受けがだいぶ違うな」
「そう云う事もあるまい」
「いやある。何しろ天皇陛下が保証して下さった
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