の怒《いかり》を乗せて韋駄天《いだてん》のごとく新橋から馳《か》けて来る。
宗近君は胴衣《ちょっき》の上で、ぱちりと云わした。
「三時二十分」
何とも応《こた》えるものがない。車は千筋《ちすじ》の雨を、黒い幌《ほろ》に弾《はじ》いて一散に飛んで来る。クレオパトラの怒《いかり》は布団《ふとん》の上で躍《おど》り上る。
「御叔母《おば》さん京都の話でも、しましょうかね」
降る雨の地に落ちぬ間《ま》を追い越せと、乗る怒は車夫の背を鞭《むちう》って馳《か》けつける。横に煽《あお》る風を真向《まむき》に切って、歯を逆に捩《ねじ》ると、甲野の門内に敷き詰めた砂利が、玄関先まで長く二行に砕けて来た。
濃い紫《むらさき》の絹紐《リボン》に、怒をあつめて、幌《ほろ》を潜《くぐ》るときに颯《さっ》とふるわしたクレオパトラは、突然と玄関に飛び上がった。
「二十五分」
と宗近君が云い切らぬうちに、怒の権化《ごんげ》は、辱《はずか》しめられたる女王のごとく、書斎の真中に突っ立った。六人の目はことごとく紫の絹紐にあつまる。
「やあ、御帰り」と宗近君が煙草を啣《くわ》えながら云う。藤尾は一言《いちごん》の挨拶《あいさつ》すら返す事を屑《いさぎよし》とせぬ。高い背を高く反《そ》らして、屹《きっ》と部屋のなかを見廻した。見廻した眼は、最後に小野さんに至って、ぐさりと刺さった。小夜子は背広《せびろ》の肩にかくれた。宗近君はぬっと立った。呑み掛けの煙草を、青葡萄《あおぶどう》の灰皿に放《ほう》り込む。
「藤尾さん。小野さんは新橋へ行かなかったよ」
「あなたに用はありません。――小野さん。なぜいらっしゃらなかったんです」
「行っては済まん事になりました」
小野さんの句切りは例になく明暸《めいりょう》であった。稲妻《いなずま》ははたはたとクレオパトラの眸《ひとみ》から飛ぶ。何を猪子才《ちょこざい》なと小野さんの額を射た。
「約束を守らなければ、説明が要《い》ります」
「約束を守ると大変な事になるから、小野さんはやめたんだよ」と宗近君が云う。
「黙っていらっしゃい。――小野さん、なぜいらっしゃらなかったんです」
宗近君は二三歩大股に歩いて来た。
「僕が紹介してやろう」と一足《ひとあし》小野さんを横へ押《お》し退《の》けると、後《うしろ》から小さい小夜子が出た。
「藤尾さん、これが小野さんの妻君だ」
藤尾の表情は忽然《こつぜん》として憎悪《ぞうお》となった。憎悪はしだいに嫉妬《しっと》となった。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した。
「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」
小夜子は泣き腫《は》らした眼を俯《ふ》せたまま、細い首を下げる。藤尾は白い拳《こぶし》を握ったまま、動かない。
「嘘《うそ》です。嘘です」と二遍云った。「小野さんは私《わたし》の夫《おっと》です。私の未来の夫です。あなたは何を云うんです。失礼な」と云った。
「僕はただ好意上事実を報知するまでさ。ついでに小夜子さんを紹介しようと思って」
「わたしを侮辱する気ですね」
化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度の怒《いかり》を満面に注《そそ》ぐ。
「好意だよ。好意だよ。誤解しちゃ困る」と宗近君はむしろ平然としている。――小野さんはようやく口を開いた。――
「宗近君の云うところは一々本当です。これは私の未来の妻に違ありません。――藤尾さん、今日《こんにち》までの私は全く軽薄な人間です。あなたにも済みません。小夜子にも済みません。宗近君にも済みません。今日から改めます。真面目《まじめ》な人間になります。どうか許して下さい。新橋へ行けばあなたのためにも、私のためにも悪いです。だから行かなかったです。許して下さい」
藤尾の表情は三たび変った。破裂した血管の血は真白に吸収されて、侮蔑《ぶべつ》の色のみが深刻に残った。仮面《めん》の形は急に崩《くず》れる。
「ホホホホ」
歇私的里性《ヒステリせい》の笑は窓外の雨を衝《つ》いて高く迸《ほとばし》った。同時に握る拳《こぶし》を厚板の奥に差し込む途端にぬらぬらと長い鎖を引き出した。深紅《しんく》の尾は怪しき光を帯びて、右へ左へ揺《うご》く。
「じゃ、これはあなたには不用なんですね。ようござんす。――宗近さん、あなたに上げましょう。さあ」
白い手は腕をあらわに、すらりと延びた。時計は赭黒《あかぐろ》い宗近君の掌《てのひら》に確《しっか》と落ちた。宗近君は一歩を煖炉に近く大股に開いた。やっと云う掛声と共に赭黒《あかぐろ》い拳が空《くう》に躍《おど》る。時計は大理石の角《かど》で砕けた。
「藤尾さん、僕は時計が欲しいために、こんな酔興《すいきょう》な邪魔をしたんじゃない。小野さん、僕は人の思をかけた女が欲しいから、こんな悪戯《いたずら》をしたんじゃない。こう壊してしまえば僕の精神は君らに分るだろう。これも第一義の活動の一部分だ。なあ甲野さん」
「そうだ」
呆然《ぼうぜん》として立った藤尾の顔は急に筋肉が働かなくなった。手が硬《かた》くなった。足が硬くなった。中心を失った石像のように椅子を蹴返して、床《ゆか》の上に倒れた。
十九
凝《こ》る雲の底を抜いて、小一日《こいちにち》空を傾けた雨は、大地の髄《ずい》に浸《し》み込むまで降って歇《や》んだ。春はここに尽きる。梅に、桜に、桃に、李《すもも》に、かつ散り、かつ散って、残る紅《くれない》もまた夢のように散ってしまった。春に誇るものはことごとく亡《ほろ》ぶ。我《が》の女は虚栄の毒を仰いで斃《たお》れた。花に相手を失った風は、いたずらに亡《な》き人の部屋に薫《かお》り初《そ》める。
藤尾は北を枕に寝る。薄く掛けた友禅《ゆうぜん》の小夜着《こよぎ》には片輪車《かたわぐるま》を、浮世らしからぬ恰好《かっこう》に、染め抜いた。上には半分ほど色づいた蔦《つた》が一面に這《は》いかかる。淋《さみ》しき模様である。動く気色《けしき》もない。敷布団は厚い郡内《ぐんない》を二枚重ねたらしい。塵《ちり》さえ立たぬ敷布《シート》を滑《なめら》かに敷き詰めた下から、粗《あら》い格子《こうし》の黄と焦茶《こげちゃ》が一本ずつ見える。
変らぬものは黒髪である。紫《むらさき》の絹紐《リボン》は取って捨てた。有るたけは、有るに任せて枕に乱した。今日《きょう》までの浮世と思う母は、櫛《くし》の歯も入れてやらぬと見える。乱るる髪は、純白《まっしろ》な敷布《シート》にこぼれて、小夜着《こよぎ》の襟《えり》の天鵞絨《びろうど》に連《つら》なる。その中に仰向《あおむ》けた顔がある。昨日《きのう》の肉をそのままに、ただ色が違う。眉は依然として濃い。眼はさっき母が眠らした。眠るまで母は丹念に撫《さす》ったのである。――顔よりほかは見えぬ。
敷布の上に時計がある。濃《こまやか》に刻んだ七子《ななこ》は無惨《むざん》に潰《つぶ》れてしまった。鎖だけはたしかである。ぐるぐると両蓋《りょうぶた》の縁《ふち》を巻いて、黄金《こがね》の光を五分《ごぶ》ごとに曲折する真中に、柘榴珠《ざくろだま》が、へしゃげた蓋の眼《まなこ》のごとく乗っている。
逆《さか》に立てたのは二枚折の銀屏《ぎんびょう》である。一面に冴《さ》え返る月の色の方《ほう》六尺のなかに、会釈《えしゃく》もなく緑青《ろくしょう》を使って、柔婉《なよやか》なる茎を乱るるばかりに描《か》いた。不規則にぎざぎざを畳む鋸葉《のこぎりは》を描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄い弁《はなびら》を掌《てのひら》ほどの大《おおき》さに描いた。茎を弾《はじ》けば、ひらひらと落つるばかりに軽く描いた。吉野紙を縮まして幾重の襞《ひだ》を、絞《しぼ》りに畳み込んだように描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。すべてが銀《しろかね》の中から生《は》える。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせるほどに描いた。――花は虞美人草《ぐびじんそう》である。落款《らっかん》は抱一《ほういつ》である。
屏風《びょうぶ》の陰に用い慣れた寄木《よせき》の小机を置く。高岡塗《たかおかぬり》の蒔絵《まきえ》の硯筥《すずりばこ》は書物と共に違棚《ちがいだな》に移した。机の上には油を注《さ》した瓦器《かわらけ》を供えて、昼ながらの灯火《ともしび》を一本の灯心《とうしん》に点《つ》ける。灯心は新らしい。瓦器の丈《たけ》を余りて、三寸を尾に引く先は、油さえ含まず白くすらりと延びている。
ほかには白磁《はくじ》の香炉《こうろ》がある。線香の袋が蒼《あお》ざめた赤い色を机の角《かど》に出している。灰の中に立てた五六本は、一点の紅《くれない》から煙となって消えて行く。香《におい》は仏に似ている。色は流るる藍《あい》である。根本《ねもと》から濃く立ち騰《のぼ》るうちに右に揺《うご》き左へ揺く。揺くたびに幅が広くなる。幅が広くなるうちに色が薄くなる。薄くなる帯のなかに濃い筋がゆるやかに流れて、しまいには広い幅も、帯も、濃い筋も行方《ゆきがた》知れずになる。時に燃え尽した灰がぱたりと、棒のまま倒れる。
違棚の高岡塗は沈んだ小豆色《あずきいろ》に古木《こぼく》の幹を青く盛り上げて、寒紅梅《かんこうばい》の数点を螺鈿擬《らでんまがい》に錬《ね》り出した。裏は黒地に鶯《うぐいす》が一羽飛んでいる。並ぶ蘆雁《ろがん》の高蒔絵の中には昨日《きのう》まで、深き光を暗き底に放つ柘榴珠が収めてあった。両蓋に隙間《すきま》なく七子を盛る金側時計が収めてあった。高蒔絵の上には一巻の書物が載《の》せてある。四隅《よすみ》を金《きん》に立ち切った箔《はく》の小口だけが鮮《あざや》かに見える。間から紫の栞《しおり》の房が長く垂れている。栞を差し込んだ頁《ページ》の上から七行目に「埃及《エジプト》の御代《みよ》しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそ」の一句がある。色鉛筆で細い筋を入れてある。
すべてが美くしい。美くしいもののなかに横《よこた》わる人の顔も美くしい。驕《おご》る眼は長《とこしな》えに閉じた。驕る眼を眠《ねむ》った藤尾の眉《まゆ》は、額は、黒髪は、天女《てんにょ》のごとく美くしい。
「御線香が切れやしないかしら」と母は次《つぎ》の間《ま》から立ちかかる。
「今上げて来ました」と欽吾が云う。膝《ひざ》を正しく組み合わして、手を拱《こまぬ》いている。
「一《はじめ》さんも上げてやって下さい」
「私《わたし》も今上げて来た」
線香の香《におい》は藤尾の部屋から、思い出したように吹いてくる。燃え切った灰は、棒のままで、はたりはたりと香炉の中に倒れつつある。銀屏《ぎんびょう》は知らぬ間《ま》に薫《くゆ》る。
「小野さんは、まだ来ないんですか」と母が云う。
「もう来るでしょう。今呼びにやりました」と欽吾が云う。
部屋はわざと立て切った。隔《へだて》の襖《ふすま》だけは明けてある。片輪車の友禅《ゆうぜん》の裾《すそ》だけが見える。あとは芭蕉布《ばしょうふ》の唐紙《からかみ》で万事を隠す。幽冥《ゆうめい》を仕切る縁《ふち》は黒である。一寸幅に鴨居《かもい》から敷居《しきい》まで真直《まっすぐ》に貫いている。母は襖《ふすま》のこちらに坐りながら、折々は、見えぬ所を覗《のぞ》き込むように、首を傾けて背を反《そ》らす。冷かな足よりも冷かな顔の方が気にかかる。覗くたびに黒い縁は、すっきりと友禅の小夜着《こよぎ》を斜《はす》に断ち切っている。写せばそのままの模様画になる。
「御叔母《おば》さん、飛んだ事になって、御気の毒だが、仕方がない。御諦《おあきらめ》なさい」
「こんな事になろうとは……」
「泣いたって、今更《いまさら》しようがない。因果《いんが》だ」
「本当に残念な事をしました」と眼を拭う。
「あんまり泣くとかえって供養《くよう》にならない。それより後《あと》の始末が大事ですよ。こうなっちゃ、是非甲野さんにいてもらうより仕方がないんだから、その気になってやらないと、あなたが困るばかりだ」
母はわっと泣き出
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