した。過去を顧《かえり》みる涙は抑《おさ》えやすい。卒然として未来におけるわが運命を自覚した時の涙は発作的《ほっさてき》に来る。
「どうしたら好いか――それを思うと――一さん」
切れ切れの言葉が、涙と洟《はな》の間から出た。
「御叔母さん、失礼ながら、ちっと平生《へいぜい》の考え方が悪かった」
「私の不行届から、藤尾はこんな事になる。欽吾には見放される……」
「だからね。そう泣いたってしようがないから……」
「……まことに面目しだいもございません」
「だからこれから少し考え直すさ。ねえ、甲野さん、そうしたら好いだろう」
「みんな私《わたし》が悪いんでしょうね」と母は始めて欽吾に向った。腕組をしていた人はようやく口を開《ひら》く。――
「偽《うそ》の子だとか、本当の子だとか区別しなければ好いんです。平たく当り前にして下されば好いんです。遠慮なんぞなさらなければ好いんです。なんでもない事をむずかしく考えなければ好いんです」
甲野さんは句を切った。母は下を向いて答えない。あるいは理解出来ないからかと思う。甲野さんは再び口を開《あ》いた。――
「あなたは藤尾に家《うち》も財産もやりたかったのでしょう。だからやろうと私が云うのに、いつまでも私を疑《うたぐ》って信用なさらないのが悪いんです。あなたは私が家にいるのを面白く思っておいででなかったでしょう。だから私が家を出ると云うのに、面当《つらあて》のためだとか、何とか悪く考えるのがいけないです。あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかったんでしょう。私が不承知を云うだろうと思って、私を京都へ遊びにやって、その留守中に小野と藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。そう云う策略がいけないです。私を京都へ遊びにやるんでも私の病気を癒《なお》すためにやったんだと、私にも人にもおっしゃるでしょう。そう云う嘘《うそ》が悪いんです。――そう云うところさえ考え直して下されば別に家を出る必要はないのです。いつまでも御世話をしても好いのです」
甲野さんはこれだけでやめる。母は俯向《うつむ》いたまま、しばらく考えていたが、ついに低い声で答えた。――
「そう云われて見ると、全く私が悪かったよ。――これから御前さんがたの意見を聞いて、どうとも悪いところは直すつもりだから……」
「それで結構です、ねえ甲野さん。君にも御母《おっか》さんだ。家にいて面倒を見て上げるがいい。糸公にもよく話しておくから」
「うん」と甲野さんは答えたぎりである。
隣室の線香が絶えんとする時、小野さんは蒼白《あおじろ》い額を抑えて来た。藍色《あいいろ》の煙は再び銀屏《ぎんびょう》を掠《かす》めて立ち騰《のぼ》った。
二日して葬式は済んだ。葬式の済んだ夜、甲野さんは日記を書き込んだ。――
「悲劇はついに来た。来《きた》るべき悲劇はとうから預想《よそう》していた。預想した悲劇を、なすがままの発展に任せて、隻手《せきしゅ》をだに下さぬは、業《ごう》深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故《ゆえ》である。悲劇の偉大なるを知るが故である。悲劇の偉大なる勢力を味わわしめて、三世《さんぜ》に跨《また》がる業《ごう》を根柢から洗わんがためである。不親切なためではない。隻手を挙ぐれば隻手を失い、一目《いちもく》を揺《うご》かせば一目を眇《びょう》す。手と目とを害《そこの》うて、しかも第二者の業《ごう》は依然として変らぬ。のみか時々に刻々に深くなる。手を袖《そで》に、眼を閉ずるは恐るるのではない。手と目より偉大なる自然の制裁を親切に感受して、石火の一拶《いっさつ》に本来の面目に逢着《ほうちゃく》せしむるの微意にほかならぬ。
悲劇は喜劇より偉大である。これを説明して死は万障を封ずるが故に偉大だと云うものがある。取り返しがつかぬ運命の底に陥《おちい》って、出て来ぬから偉大だと云うのは、流るる水が逝《ゆ》いて帰らぬ故に偉大だと云うと一般である。運命は単に最終結を告ぐるがためにのみ偉大にはならぬ。忽然《こつぜん》として生を変じて死となすが故に偉大なのである。忘れたる死を不用意の際に点出するから偉大なのである。ふざけたるものが急に襟《えり》を正すから偉大なのである。襟を正して道義の必要を今更のごとく感ずるから偉大なのである。人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏《のうり》に樹立するが故《ゆえ》に偉大なのである。道義の運行は悲劇に際会して始めて渋滞《じゅうたい》せざるが故に偉大なのである。道義の実践はこれを人に望む事|切《せつ》なるにもかかわらず、われのもっとも難《かた》しとするところである。悲劇は個人をしてこの実践をあえてせしむるがために偉大である。道義の実践は他人にもっとも便宜《べんぎ》にして、自己にもっとも不利益である。人々《にんにん》力をここに致すとき、一般の幸福を促《うな》がして、社会を真正の文明に導くが故に、悲劇は偉大である。
問題は無数にある。粟《あわ》か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。綴織《つづれおり》か繻珍《しゅちん》か、これも喜劇である。英語か独乙語《ドイツご》か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である。
十年は三千六百日である。普通の人が朝から晩に至って身心を労する問題は皆喜劇である。三千六百日を通して喜劇を演ずるものはついに悲劇を忘れる。いかにして生を解釈せんかの問題に煩悶《はんもん》して、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙がしきが故に生と死との最大問題を閑却する。
死を忘るるものは贅沢《ぜいたく》になる。一浮《いっぷ》も生中である。一沈《いっちん》も生中である。一挙手も一投足もことごとく生中にあるが故に、いかに踊るも、いかに狂うも、いかにふざけるも、大丈夫生中を出ずる気遣《きづかい》なしと思う。贅沢は高《こう》じて大胆となる。大胆は道義を蹂躙《じゅうりん》して大自在《だいじざい》に跳梁《ちょうりょう》する。
万人はことごとく生死の大問題より出立する。この問題を解決して死を捨てると云う。生を好むと云う。ここにおいて万人は生に向って進んだ。ただ死を捨てると云うにおいて、万人は一致するが故に、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。されども、万人は日に日に生に向って進むが故に、日に日に死に背《そむ》いて遠ざかるが故に、大自在に跳梁して毫《ごう》も生中を脱するの虞《おそれ》なしと自信するが故に、――道義は不必要となる。
道義に重《おもき》を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける。騒ぐ。欺《あざむ》く。嘲弄《ちょうろう》する。馬鹿にする。踏む。蹴る。――ことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に――この快楽は道義を犠牲にして始めて享受《きょうじゅ》し得るが故に――喜劇の進歩は底止《ていし》するところを知らずして、道義の観念は日を追うて下《くだ》る。
道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。ここにおいて万人の眼はことごとく自己の出立点に向う。始めて生の隣に死が住む事を知る。妄《みだ》りに踊り狂うとき、人をして生の境を踏み外《はず》して、死の圜内《けんない》に入らしむる事を知る。人もわれももっとも忌《い》み嫌える死は、ついに忘るべからざる永劫《えいごう》の陥穽《かんせい》なる事を知る。陥穽の周囲に朽《く》ちかかる道義の縄は妄《みだ》りに飛び超《こ》ゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。しかして始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」
二ヵ月|後《ご》甲野さんはこの一節を抄録して倫敦《ロンドン》の宗近君に送った。宗近君の返事にはこうあった。――
「ここでは喜劇ばかり流行《はや》る」
底本:「夏目漱石全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年1月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年4月3日公開
2004年1月10日修正
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