き棄《す》てた書面は見事に乱れている。あるいは二三行、あるいは五六行、はなはだしいのは一行の半分で引き千切ったのがある。
「みんな要りません」
「それじゃ、ちっと片づけよう。紙屑籠《かみくずかご》はどこにあるの」
 欽吾は答えなかった。母は机の下を覗《のぞ》き込む。西洋流の籃製《かごせい》の屑籠《くずかご》が、足掛《あしかけ》の向《むこう》に仄《ほのか》に見える。母は屈《こご》んで手を伸《のば》した。紺緞子《こんどんす》の帯が、窓からさす明《あかり》をまともに受けた。
 欽吾は腕を右へ真直《まっすぐ》に、日蔽《ひおい》のかかった椅子《いす》の背頸《せくび》を握った。瘠《や》せた肩を斜《ななめ》にして、ずるずると机の傍《そば》まで引いて来た。
 母は机の奥から屑籠を引《ひ》き擦《ず》り出した。手紙の断片《きれ》を一つ一つ床から拾って籠の中へ入れる。捩《ね》じ曲げたのを丹念に引き延ばして見る。「いずれ拝眉《はいび》の上……」と云うのを投げ込む。「……御免蒙《ごめんこうむ》り度候《たくそろ》。もっとも事情の許す場合には御……」と云うのを投げ込む。「……はとうてい辛抱致しかね……」と云うのを裏返して見る。
 欽吾は尻眼に母をじろりと眺《なが》めた。机の角に引き寄せた椅子の背に、うんと腕の力を入れた。ひらりと紺足袋《こんたび》が白い日蔽《ひおい》の上に揃《そろ》った。揃った紺足袋はすぐ机の上に飛び上る。
「おや、何をするの」と母は手紙の断片を持ったまま、下から仰向《あおむ》いた。眼と眼の間に怖《おそれ》の色が明かに読まれた。
「額を卸《おろ》します」と上から落ちついて云う。
「額を?」
 怖《おそれ》は愕《おどろき》と変じた。欽吾は鍍金《ときん》の枠《わく》に右の手を懸《か》けた。
「ちょいと御待ち」
「何ですか」と右の手はやはり枠に懸っている。
「額を外《はず》して何にする気だい」
「持って行くんです」
「どこへ」
「家《うち》を出るから、額だけ持って行くんです」
「出るなんて、まあ。――出るにしても、もっと緩《ゆっくり》外《はず》したら宜《よ》さそうなもんじゃないか」
「悪いですか」
「悪くはないよ。御前が欲しければ持って行くが、いいけれども。何もそんなに急がなくっても好いんだろう」
「だって今外さなくっちゃ、時間がありません」
 母は変な顔をして呆然《ぼうぜん》として立った。欽吾は両手を額に掛ける。
「出るって、御前本当に出る気なのかい」
「出る気です」
 欽吾は後《うし》ろ向《むき》に答えた。
「いつ」
「これから、出るんです」
 欽吾は両手で一度上へ揺り上げた額を、折釘《おれくぎ》から外して、下へさげた。細い糸一本で額は壁とつながっている。手を放すと、糸が切れて落ちそうだ。両手で恭《うやうや》しく捧げたままである。母は下から云う。
「こんな雨の降るのに」
「雨が降っても構わないです」
「せめて藤尾に暇乞《いとまごい》でもして行ってやっておくれな」
「藤尾はいないでしょう」
「だから待っておくれと云うのだあね。藪《やぶ》から棒《ぼう》に出るなんて、御母《おっか》さんを困らせるようなもんじゃないか」
「困らせるつもりじゃありません」
「御前がその気でなくっても、世間と云うものがあります。出るなら出るようにして出てくれないと、御母さんが恥を掻《か》きます」
「世間が……」と云いかけて額を持ちながら、首だけ後《うしろ》へ向けた時、細長く切れた欽吾の眼は一度《ひとたび》は母に落ちた。やがて母から遠退《とおの》いて戸口に至ってはたと動かなくなった。――母は気味悪そうに振返る。
「おや」
 天から降ったように、静かに立っていた糸子は、ゆるやかに頭《つむり》を下げた。鷹揚《おうよう》に膨《ふくら》ました廂髪《ひさしがみ》が故《もと》に帰ると、糸子は机の傍《そば》まで歩を移して来る。白足袋が両方|揃《そろ》った時、
「御迎《おむかえ》に参りました」と真直《まっすぐ》に欽吾を見上げた。
「鋏《はさみ》を取って下さい」と欽吾は上から頼む。顎《あご》で差図をした、レオパルジの傍に、鋏がある。――ぷつりと云う音と共に額は壁を離れた。鋏はかちゃりと床《ゆか》の上に落ちた。両手に額を捧げた欽吾は、机の上でくるりと正面に向き直った。
「兄が欽吾さんを連れて来いと申しましたから参りました」
 欽吾は捧げた額を眼八分《めはちぶん》から、そろりそろりと下の方へ移す。
「受取って下さい」
 糸子は確《しか》と受取った。欽吾は机から飛び下りる。
「行きましょう。――車で来たんですか」
「ええ」
「この額が乗りますか」
「乗ります」
「じゃあ」と再び額を受取って、戸口の方へ行く。糸子も行く。母は呼びとめた。
「少し御待ちよ。――糸子さんも少し待ってちょうだい。何が気に入らないで、親の家《うち》を出るんだか知らないが、少しは私《わたし》の心持にもなって見てくれないと、私が世間へ対して面目がないじゃないか」
「世間はどうでも構わないです」
「そんな聞訳《ききわけ》のない事を云って、――頑是《がんぜ》ない小供みたように」
「小供なら結構です。小供になれれば結構です」
「またそんな。――せっかく、小供から大人《おとな》になったんじゃないか。これまでに丹精するのは、一と通りや二た通りの事じゃないよ、御前。少しは考えて御覧な」
「考えたから出るんです」
「どうして、まあ、そんな無理を云うんだろうね。――それもこれもみんな私の不行届から起った事だから、今更《いまさら》泣いたって、口説《くど》いたって仕方がないけれども、――私は――亡《な》くなった阿父《おとっ》さんに――」
「阿父さんは大丈夫です。何とも云やしません」
「云やしませんたって――何も、そう、意地にかかって私を苛《いじ》めなくっても宜《よ》さそうなもんじゃないか」
 甲野さんは額を提《さ》げたまま、何とも返事をしなくなった。糸子はおとなしく傍に着いている。雨は部屋を取り巻いて吹き寄せて来る。遠い所から風が音を輳《あつ》めてくる。ざあっと云う高い響である。また広い響である。響の裡《うち》に甲野さんは黙然《もくねん》として立っている。糸子も黙然として立っている。
「少しは分ったかい」と母が聞いた。
 甲野さんは依然として黙している。
「これほど云っても、まだ分らないのかね」
 甲野さんはやはり口を開かない。
「糸子さん、こう云う体《てい》たらくなんですから。どうぞ御宅へ御帰りになったら、阿父さんや兄さんに御覧の通りを御話し下さい。――まことに、こんなところをあなた方に御見せ申すのは、何ともかとも面目しだいもございません」
「御叔母《おば》さん。欽吾さんは出たいのですから、素直に出して御上げなすったら好いでしょう。無理に引っ張っても何にもならないと思います」
「あなたまでそれじゃ仕方がありませんね。――それは失礼ながら、まだ御若いから、そう云う奥底のない御考も出るんでしょうが。――いくら出たいたって、山の中の一軒家に住んでいる人間じゃなし、そう今が今思い立って、今出られちゃ、出る当人より、残ったものが困りまさあね」
「なぜ」
「だって人の口は五月蠅《うるさい》じゃありませんか」
「人が何と云ったって――それがなぜ悪いんでしょう」
「だって御互に世間に顔出しが出来ればこそ、こうやって今日《こんにち》を送っているんじゃありませんか。自分より世間の義理の方が大事でさあね」
「だって、こんなに出たいとおっしゃるんですもの。御可哀想《おかわいそう》じゃありませんか」
「そこが義理ですよ」
「それが義理なの。つまらないのね」
「つまらなかありませんやね」
「だって欽吾さんは、どうなっても構わない……」
「構わなかないんです。それがやっぱり欽吾のためになるんです」
「欽吾さんより御叔母《おば》さんのためになるんじゃないの」
「世の中への義理ですよ」
「分らないわ、私《わたし》には。――出たいものは世間が何と云ったって出たいんですもの。それが御叔母《おば》さんの迷惑になるはずはないわ」
「だって、こんな雨が降って……」
「雨が降っても、御叔母さんは濡《ぬ》れないんだから構わないじゃありませんか」
 汽車のない時の事であった。山の男と海の男が喧嘩《けんか》をした。山の男が魚は塩辛いものだと云う。海の男が魚に塩気があるものかと云う。喧嘩はいつまで立っても鎮《しず》まらなかった。教育と名《なづ》くる汽車がかかって、理性の楷段《かいだん》を自由に上下する方便《ほうべん》が開けないと、御互の考《かんがえ》は御互に分らない。ある時は俗社会の塩漬になり過ぎて、ただ見てさえも冥眩《めんけん》しそうな人間でないと、人間として通用しない事がある。それは嘘《うそ》だ偽《いつわり》だと説いて聞かしてもなかなか承知しない。どこまでも塩漬趣味を主張する。――謎《なぞ》の女と糸子の応対は、どこまで行っても並行するだけで一点には集まらない。山の男と海の男が魚に対して根本的の観念を異《こと》にするごとく、謎の女と糸子とは、人間に対して冒頭《あたま》から考が違う。
 海と山とを心得た甲野さんは黙って二人を見下《みおろ》している。糸子の云うところは弁護の出来ぬほど簡単である。母の主張は愛想《あいそ》のつきるほど愚にしてかつ俗である。この二人の問答を前に控えて、甲野さんは阿爺《おやじ》の額を抱いたまま立っている。別段退屈した気色《けしき》も見えない。焦慮《じれっ》たそうな様子もない。困ったと云う風情《ふぜい》もない。二人の問答が、日暮まで続けば、日暮まで額を持って、同じ姿勢で、立っているだろうと思われる。
 ところへ、雨の中の掛声がした。車が玄関で留った。玄関から足音が近づいて来た。真先に宗近君があらわれた。
「やあ、まだ行かないのか」と甲野さんに聞く。
「うん」と答えたぎりである。
「御叔母《おば》さんもここか、ちょうど好い」と腰を掛ける。後《あと》から小野さんが這入《はい》って来る。小野さんの影を一寸《いっすん》も出ないように小夜子がついてくる。
「御叔母さん、雨の降るのに大入《おおいり》ですよ。――小夜子さん、これが僕の妹です」
 活躍の児《じ》は一句にして挨拶《あいさつ》と紹介を兼《かね》る。宗近君は忙しい。甲野さんは依然として額を支えて立ったままである。小野さんも手持無沙汰《てもちぶさた》に席に着かぬ。小夜子と糸子はいたずらに丁寧な頭《つむり》を下げた。打ち解けた言葉は無論交す機会がない。
「雨の降るのに、まあよく……」
 母はこれだけの愛嬌《あいきょう》を一面に振り蒔《ま》いた。
「よく降りますね」と宗近君はすぐ答えた。
「小野さんは……」と母が云い懸《か》けた時、宗近君がまた遮《さえぎ》った。
「小野さんは今日藤尾さんと大森へ行く約束があるんだそうですね。ところが行かれなくなって……」
「そう――でも、藤尾はさっき出ましたよ」
「まだ帰らないですか」と宗近君は平気に聞いた。母は少しく不快な顔をする。
「どうして大森どころじゃない」と独語《ひとりごと》のように云ったが、ちょっと振り返って、
「みんな掛けないか。立ってると草臥《くたびれ》るぜ。もう直《じき》藤尾さんも帰るだろう」と注意を与えた。
「さあ、どうぞ」と母が云う。
「小野さん、掛けたまえ。小夜子さんも、どうです。――甲野さん何だい、それは……」
「父の肖像を卸《おろ》しまして、あなた。持って出るとか申して」
「甲野さん、少し待ちたまえ。もう藤尾さんが帰って来るから」
 甲野さんは別に返事もしなかった。
「少し私が持ちましょう」と糸子が低い声で云う。
「なに……」と甲野さんは提《さ》げていた額を床《ゆか》の上へ卸して壁へ立て掛けた。小夜子は俯向《うつむ》きながら、そっと額の方を見る。
「なんぞ藤尾に、御用でも御有《おあん》なさるんですか」
 これは母の言葉であった。
「ええ、あるんです」
 これは宗近の答であった。
 あとは――雨が降る。誰も何とも云わない。この時一|輛《りょう》の車はクレオパトラ
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